行かないで ――──忘れていいよ、と祈った。 降り積もった痛みは全部持っていってあげるからと。 あの日雪に埋めた想いも、全部持っていってあげると。 呪をかけた。 どうか、俺のことを忘れて。 苦しみも悲しみも、全部全部俺の中に隠してあげるから──……。 『昌浩』と。 あの優しい声が聞こえた気がした。 「…………夢、か」 まだ辺りは暗く、肌寒い。 一人ごちてから昌浩は褥から体を起こした。 うっすらと汗ばんだ体に髪がはりついている。単衣も少し湿っていることに不快感を感じて、昌浩はため息を落とした。 「着替えなきゃ風邪引くかなぁ……。」 こんな時あの白い物の怪だったら何と言うのかと埒も無く思い、昌浩は苦笑する。ふとした時に物の怪のことを考えてしまう自分がいた。もう今はそれは昌浩の知る物の怪ではないというのに。それでも、あの声が耳の奥で甦る。意識せずにしようとしても考えてしまう。高い声が自分をたしなめ、時にはげましてくれた。 救われて、いたのに。 もう駄目だと思うたび助けてくれて。 ずっと、いつでも傍にいてくれた。 けれど、もう『彼』はいない。 昌浩の知っている『紅蓮』はいないのだ。 解っている。解っているのだ。彼の記憶を持っていこうとしたのは自分だ。運よく戻ってこれたとしてもそれは変わらないことで、戻ってこれた代償の一つですらあるのかもしれない。これは自分が受けなくては罰なのだろう。 それでも、夢の中で会いたくなる。 あの優しい声で名前を呼んで欲しい。 力強い腕で抱きしめて、そして──――。 そこまで考えたところで昌浩は首を振った。 ……何て愚かなのだろう。 自分が『彼』の心をいじった結果だというのに。 それでも求めてしまう愚かな自分。 着替えようとして、ふと昌浩はさらしが緩くなっていることに気づいた。 ここには十二神将しかいないから、恐らく勾陳あたりが巻いてくれたのだろう。 単衣を脱いで昌浩は緩くなったさらしを取り始めた。 だんだんと膨らみ始めた胸。 それを見てふと彼が──紅蓮が「まだまだ大きくなるんじゃないか?」と、あまり有り難くないことを言ったことを思い出す。 『え。そうなったら大分困るんだけど。ごまかせないじゃん。』 『もともと男のふりして生きて行こうというのが無理なんだ。いつか限界が来る。』 『でも、今更やめるわけにはいかないし……。』 『いざとなったら晴明がどーにかするだろうよ。それぐらい考えてるさ、あいつは。』 『そうならいいんだけど……。』 『……それに俺がいる。ずっと、傍にいてお前を守り、支えてやる──――。』 そう言って。 彼は微笑んだのに。 「………嘘つき。」 ぽとりと、冷たい滴が布に落ちた。 ――――不意に夜の静けさの中で、空気が変わる。 「!!」 変わった空気の中に昼間と同じ妖の気配が感じ取れた。急いで単衣を着直すとその上から袿をひっかけ、昌浩は外へと飛び出す。土の上に裸足で降りると、すぐ近くに六合と勾陳が顕現した。 「六合、勾陳!」 「昼間のやつか?」 「十中八九そうだろう。……来るぞ」 六合と勾陳が素早く昌浩をとり囲み、視えない彼女の守りを固める。 「昌浩!」 「来るぞ!」 大陰と玄武も顕現し、妖の襲撃に備えた。 「……え?」 「二匹!?」 その時不意に散じた気配は確かに二つだった。動きが素早いから錯覚しているのではない。それは昼間てこずったのものよりも多い頭数。 気づいた大陰が驚愕した声を上げたのに、ぐっと昌浩は悔しげに唇を噛みしめる。 “視えない” 昼間と同じだ。感じられるのに、視えない。それが、何よりも歯がゆい──―― 「玄武っ! 妖が来る方向を教えて」 「……大丈夫なのか?」 「大丈夫じゃないかもしれないけど、でも。やれることは、やっておかなきゃ……!」
「……約束、したんだ」 大切な、約束を。 空気が風を伴って切り裂かれた。昌浩のいた位置を唸りをあげた獣が疾走していく。 六合は引き寄せた昌浩を玄武にまかせ、銀槍で妖と対峙した。玄武は昌浩の横でもう一匹の妖を見定めようとする。 「来る!五時の方向!」 玄武の声と同時に昌浩が刀印を払った。 「斬っ!!」 裂帛の霊力が刃へと変わり僅かに妖に襲い掛かる。しかし、それが逆に昌浩に目を向けさせた。妖は耳障りな鳴き声をあげ、昌浩に襲いかかる。 「昌浩っ!!」 妖と対峙していた勾陳と六合が焦ったように叫んだ。妖は大陰の風の鉾をやすやすとすり抜け、瞬時に昌浩に肉迫する。 玄武が結界を張ろうとするが、間に合わない。昌浩の顔が僅かに恐怖で引き攣った。 「っ……!!」 思わず小さな声で。 本当に本当に小さな声で呟いた。 「……ぐれん――っ……!」 ――――次の瞬間、昌浩の横を炎蛇が駆け抜けた。 「!?」 「……また来たのか、愚かな妖共が……」 低く冷たい響きが鼓膜を打つ。 どくん、と心臓が跳ねた。 後方に冷たい気配の神気が顕現した。一斉に他の神将が彼を見つめる。しかし、昌浩は振り向かず眼前の炎を呆然と見つめていた。 炎蛇が妖に巻き付き、その煉獄の炎で燃え続けている。耳障りな咆哮が耳を打つ。もう一体の妖も炎蛇に屠られ、六合がとどめを刺した。 「……まだ生きていたのか」 昌浩に襲い掛かった妖はまだ炎から抜け出そうともがいていた。す、と目を細め騰蛇が炎を強めようとする。しかしその前に妖は咆哮を上げて炎を弾き飛ばすと、瞬時に昌浩に襲いかかった。 「なっ!?」 「昌浩っ!!」 騰蛇の驚愕する声と玄武の叫びが重なる。太陰が悲鳴をあげ、六合と勾陳が駆けるが妖のほうが早い。 騰蛇以外の神将達は、絶望の色を顔に浮かべた―――― 刹那。 声が、響いた。 「……この術は凶悪を断却し不詳を払除す。」 右手に結ばれた刀印が、呪文と共に振り払われる。 「降伏!!」 白刃が夜闇を切り裂き妖に切迫した。回避しようとした妖は避けきれず断末魔の悲鳴をあげて両断される。そして僅かに残っていた騰蛇の炎が、妖の骸を焼き尽くした。 「昌浩!」 そのまま膝をつき、くずおれた昌浩に大陰が慌てて駆け寄る。勾陳も屈みこみ昌浩の顔を覗きこんだ。 僅かに疲労の色が伺えるものの、何故か浮かべられていたのは淡い微笑。そのことに驚きつつも、玄武は彼女を起こしながら問うた。 「……視えたのか?」 「ううん。……炎が燃え移ってたからさ。ここら辺かなーと思ったら上手い具合に当たってくれたみたい。外れないでくれて良かったよ」 そう言って仄かに笑う昌浩を見て、大陰達は驚愕する。 “視えない”というのに。 この子供は、微かな炎と勘だけで妖を調伏したというのか。 「……全く、晴明の孫とは良く言ったものだよ……」 誰にも聞かれないような小さな声で呟いて、勾陳は同じように驚いている騰蛇に目をやった。 「……っ」 「昌浩っ?!」 よろめきながら立ち上がった昌浩に、大陰が悲鳴じみた声をあげる。大丈夫、と言って昌浩は未だ姿を現し続けていた騰蛇の前に立った。 「……何用だ。」 冷たく感情のない金の瞳が自分を射抜く。 その声、その顔には『彼』の面影はない。
あぁ悲しみに染まらない白さで 「……さっきは助かった。ありがとう――……」
言葉と共に向けられた柔らかな微笑みに、騰蛇は心底驚愕した。 ――――何故笑える。 同胞にすら忌み嫌われる自分に。 地獄の業火を持ち、全てを滅ぼすだけの自分に。 どうしてそんなに優しく笑える――─― 「……っ……」 突然、昌浩が小さな呻き声を上げて前へと傾いだ。 倒れ込む昌浩を騰蛇は咄嗟に支える。そしてふわりと感じた温もりと少しの違和感にまたもや目をみはり驚愕した。 「……騰蛇?」 呆然と固まった騰蛇に不思議そうな顔で勾陳が近づく。 「…………」 意識を失った昌浩をそのまま勾陳に押し付けると、騰蛇は物の怪の姿になりどこかへ姿を消した。 「……知ったか」 袿をひっかけているとはいえ単衣一枚だ。体型などすぐに解る。しかも昌浩は成長期。それなりにそれなりな体を持っていて。そもそもその体になってきたのすら、恐らく騰蛇自身のお陰だろうに。 預かった昌浩を六合へ渡し褥に運ぶよう告げると、勾陳は幾多の星が輝く夜空を見上げた。 「……あれを『女』にしたのは……お前だろう、騰蛇──?」 その呟きを聞いた者は、いない。
思い出を焼き尽くして 屋根の上に、白いものが鎮座していた。その横に、ふっと神気が出現する。 「……勾」 白いもの──物の怪の姿をした騰蛇は勾陳を見あげた。 「……あれは女なのか?」 「そうだ」 物の怪の問いかけに勾陳は目を細めて返す。その言葉を聞いて、騰蛇はちら、と下をみやった。 力は強い。が、見鬼の才を持っていないようなのに──―― 「あれは晴明の後継だ、騰蛇」 「っ!? あの子供がか!?」 「そうだ。そう晴明が我らに告げた。あれだけが、晴明の後継になり得る器を持っている。……全ての神将が認めたわけじゃないが、少なくとも私はあれの力を認めているよ」 そう言った勾陳に、騰蛇は心底驚いたように目を瞬かせ、そして眉を寄せる。 「何故……? あの子供にそんな力があるのか……?」 呆然と呟く騰蛇を、勾陳は痛ましいものを見るような目で見やった。 俯き考えるその頭をぽんと叩くと、くしゃりと掻き混ぜてから遠くに視線を飛ばす。 「……あれを晴明の後継と言った者が、もう一人いた」 「……いた?」 「あぁ、いたんだ。……騰蛇、お前も良く知っている者だったよ。その者を、昌浩は闇から光へと引っ張りあげたんだ」 もう、あの笑顔は見れない。 息を止める程驚いた、あの穏やかな笑顔は。 「……恐らく六合や大陰、玄武、天一、朱雀……認めている者は多い。……あの子は神をも巻き込む運気を持つと、晴明が言っていた。私はあの子供を好ましく思っているよ」 闇を切り裂く、光。 そう、彼女は────。 「……………」 それきり無言になってしまった物の怪を見て、勾陳はため息をつく。 彼女は考え込む物の怪からふと前を見やり、瞳を緩く和ませた。 「……暁降ちか」 その言葉に物の怪がびくんっ! と肩を震わせた。 「騰蛇、どうした?」 「…………何でもない」 そのまま体を起こすと、物の怪は姿を消す。 徐々に明るくなる空を見つめて、勾陳は呟いた。 「あぁ、夜が明けるな────――」 未だ、あの二人の夜は明けぬというのに。 世界は廻る。 止まることを知らぬ車のように。 |