それはまるで、陽だまりに似て
最近、気になっている子がいる。 「……その言い方は激しく誤解を招くんじゃないか?」 「事実だよ?」 「いや、そうかもしんねーけどよ……」 高校から続く友人はげんなりした顔でため息をついた。 別に間違ったことを言っているつもりはない。ただ、その『気になる』という言葉に深読みするほどの意味があるわけではなく、額面どおりの言葉だというだけで。 何も知らぬ人間が自分の興味の行き先と、その言葉を重ね合わせたら意味深な想像を思い浮かべることだろう。実際、普段つるんでいる友人その一は『変な想像』をして一人気持ち悪いくらい悶えたために鉄拳(言葉の)制裁を下したのだが。 そして目の前にいる友人は、正しくこちらの意をくんでくれる稀有な人物であったため呆れたような顔を見せた。 「そりゃあまぁ、アイツがあんなに柔らかい顔させる人だからなぁ……気になるっちゃ気になるけど」 「でしょう? ……まぁ、池沢は独占欲が強いみたいだからそうそう見せてはくれないだろうけど」 「全くだ」 彼女特有のカラリとした笑みが向けられ、そうして結露が付着するグラスのストローが回る。意味も無くくるくると回されるそれは、彼女の心情を表しているようでもあった。少し楽しんで、でもちょっとだけ心配している。……まぁ、興味をもったものに抱く悪戯心の被害状況を自覚はしている。しかし、改めるつもりはこれっぽっちもない。 よく言うではないか。人生、楽しんだもの勝ちだと。 氷がグラスにぶつかる澄んだ音。それが止んだ瞬間、彼女はふと柔らかい――母性溢れる――笑みを浮かべた。 「でも、どっちかっつーと気になってるのはアイツみたいだしな? ……いや、俺の状況聞いて平然としてるやつなんて早々いねぇだろうけど……」 「でもあれは面白かったよねぇ」 彼女の状況を聞いた瞬間の『彼』の反応は劇的ですらあった。 目を丸くし、ついでその鋭くも静かな瞳に宿った羨望――――微かな苛立ちを含んだ、心底羨ましそうな感情に自分も彼女も驚いたものだ。 それも彼から、彼の愛しい女性の話を聞けば頷けたのだが。 「んで? 何かおっ始めようとでもしてんのか?」 「やだなぁ、僕はそんなにアクティブでもフットワークが軽くもないよ」 「いや、十分だろ……」 引きつった顔の彼女に、ニッコリと人畜無害を装った笑みを返す。元から無害ではあるのだ。自分と同年代、もしくは年下の女性と、他の有象無象には。興味がないものに向ける悪意も敵意もない。だからこそ自分の認める者たちには様々な感情を向けることが出来る。 そんな屈折した自分を受け入れてくれる友人たちが、愛しいと思う。 そして最近愛すべき友人たちの一人に仲間入りした彼――――池沢佳主馬にちょっかいを出してみたいと思うのも、小島水色にとっては当然のことなのだ。 彼との出会いは四月初旬。 大学に入学し、高校との勝手の違いに嘆く友人を尻目に見ていた時だった。 『――――邪魔』 たった一言。侮蔑も嫌味も嫌悪も、およそ感情というものが取り払われたただ純粋な単語だけの言葉だった。声は低く、芯の通った静かな声。そしてそれは威圧や傲岸でもない、当然と言わんばかりの統べることに慣れた声だった。 『あ、すすみません……!!』 入り口で騒いでいた啓吾に放たれた一言は小心者である彼を一突きし、啓吾はすぐさまその場を飛びのいた。その道を彼は悠々と通り、窓際の席に腰を降ろしたのだ。 艶やかに黒い、鴉の濡れ羽色と称すればいいのだろうか。健康的な褐色の肌に美しい黒髪が映え、何か武術でもやっているのか体格もいい。すらりと伸びた長身に均整のとれた体、おまけに色気ある美形とくれば周りの女子も色めき立つ。しかし彼は慣れているのか、自分に向けられる多々の視線を気にした様子もなく講義の準備を始めた。 それが一番最初の記憶。 へぇ、と意識の端に引っかかった。無関心そうにしながらも隙が無い。かといって警戒心が強いわけでもなく、しかし馴れ合うのを好むようなタイプでもない。だけれども彼から窺える雰囲気はどこか軟らかさを感じさせる。 密林の孤高の王――――そんなイメージがぴったりだ。誰かを従えるわけでも、かといって拒絶するわけでもなく、それでも弱肉強食のピラミッドの頂きに座するのが似合うような。しなやかな黒豹を連想させる。 もっとも、彼が確かに『王』の器であり、黒豹とは対極だろう兎の形の王であることを知るのはこれよりも先なのだが、それはさておき。 とにもかくにも、水色は彼、池沢佳主馬に興味をもったのだ。 一度関心を持つと佳主馬は水色の目を惹いた。当然といえば当然だ、彼とはほとんど取っている講義が一緒だったのだから。しかもどの教室、どの講義でも彼は例外なく同じ席に座った。窓際列、一番後ろから三番目。 一番後ろでもその前でもなく、敢えて三番目に座る彼の心理はなんとなく予想できた。自分の目立つ容姿を彼は自覚しているのだろう。だから出来るだけ目立たぬ場所にいようとしているのだ。その中途半端な席は彼のパーソナルスペースだったのだろう。 その目論見は結局、自分たちと友人関係を築いてしまったことでご破算になるのだが。 あれは彼のことをまだ目で追っていた頃だった。目で追うくらいしか、していなかった頃だった。 そんな機微にあまり気付かない、気付けない啓吾が何故かその日、彼が好んでいるだろう窓際後ろから三番目の席を陣取ったのだ。そのことに多少呆れを感じつつも、水色は一列挟んで隣に腰を降ろした。 ある意味、もう好奇心は限界だったのかもしれない。きっかけが欲しかったのはむしろ水色のほうで、啓吾はその手伝いを知らぬうちにしたに過ぎない。 しかしそれが、今日の彼と自分の友人関係を形成したのも確かなことだ。 暫くその場で啓吾の騒がしい話を聞いていると、講義の始まる五分前に佳主馬が現れた。 そして彼はふっとこちらを見て――――僅かに、恐らく人の機微に聡い水色にしか気付けないくらいの苛立ちを啓吾に向けたのだ。 無感動で無関心な瞳に初めて浮かんだ、彼の感情。 それに妙な感動を覚えた水色は、瞬時に啓吾をその席から蹴り落としたのである。 『ぶおばほへっ!?』 不可解な声を上げて啓吾が床に倒れ伏す。それを見ることもせず、水色はさっさと啓吾の持ち物を自分の後ろの席に移動させると、唖然としたように目を瞬かせる佳主馬ににっこりと微笑んだのだ。 『ここ、空いてるよ?』 すると彼は暫し絶句し、そして直ぐに口の端を持ち上げ嫣然と笑った。 『……悪いね』 悪いなど、露ほども思っていないような笑みだった。 しかし彼はそれが許される風格を持っていた。 そしてその笑みは彼が大学に入学し、初めて人前で見せた笑みだった。 『どういたしまして』 その笑みを向けられた水色は、これからの大学生活がより一層輝かしいものになることを確信した。 そして今、その確信は確定のものとなっている。 「……悪い顔してんなぁ」 「え? そんな顔してたかな」 「してた。ものすごーく楽しそうな顔」 「気付くのは君たちぐらいだよ」 そう言えば彼女は「付き合い長いんだから当たり前だろ」と笑った。 その『当たり前』が水色にとって、どんなに素晴らしく愛しいものであるのか――彼女はきっと一生気がつかない。 だが、それでいい。気付かないままの彼女が、彼女が彼女らしく在ってくれることが水色は嬉しい。だからこそ、その稀有な一人に仲間入りした佳主馬の大切な『彼女』が気になるのも、また当然のことで。 つまり、この状況が渡りに船というわけだ。 「よかった、佳主馬くんを知っている人がいて……」 「小島水色っていいます。池沢とは講義が重なってることが多くて……」 「小島くん? 君が小島くんなんだ! 佳主馬くんから聞いて……えっと」 「ああ、良いですよ。池沢が僕に関して言うことなんて、大体解りますから」 嘘だ。本当はさっぱり解らない。いや、池沢から自分への見解にはあらかた見当もつくが、それを誰かに話している彼が思い浮かべられない。自分もまだまだだ。 笑顔で応対しつつも、その実水色の胸中は少しばかり混乱していた。まさか、まさかとは思うが――どう考えても答えはひとつだ。 「本当によかった! 佳主馬くん、どうしてか携帯も繋がらなかったからここしか思いつける場所が無かったんだよね」 ほっとしたように少女――自分の考えが正しければ年上なので女性というべきなのだろうが、ともかく彼女は微笑んだ。ふわりと浮かぶ笑みは柔らかく温かい。見るものを安心させる笑みだ。 肩を少しすぎるくらいの髪はところどころ跳ねてふわふわとしている。華奢でほっそりとした体躯に、淡いベージュに小花柄のシフォンワンピースが良く似合う。美人とも美少女とも言えないが、可愛らしさという点では水色の知る少女たちの中でも群を抜く。 ほわほわとした雰囲気の彼女は、安堵したように胸の中の用紙を抱え直した。 「あ」 「ん?」 「…………忘れた」 「え?」 「レポート」 「……あー……」 潜められた眉がきゅっと更に寄る。二人以外誰もいない部室に軽い舌打ちの音が響いて水色は苦笑した。 仮だった剣道部をやめて佳主馬が入ったのはパソコン研究会だった。部員数十数人程度のサークルだったが、数人の部員がプログラムなどに関し高い実績を持っているため部室は新館にあった。 部室棟があるため、大半のサークルはそちらに部室を持っているのだが、パソコン研究会はその名の通りパソコンを使用する。ネット回線の問題、実績を鑑みたその結果、パソコン研究会は新館に部室を貰うことが出来たのである。新館は部室棟と違い明るい、綺麗、広い、と他のサークルよりも格段に良い環境だった。 そんな部室だというのにパソコン部の部室にはあまり人がいなかった。何故なら『部』とは言いつつも部員は皆自宅での作業が好きな人物ばかりだったからだ。イベント前や発表前は来てもその他の時間には滅多に姿を現さなかった。それをいいことに、最近ではもっぱら佳主馬と水色、そして啓吾や他の友人らが占領している状態である。 そして今日もまた、佳主馬は次の講義までの暇つぶし、水色は迎え(今日は大手企業の美人OL)が来るまで部室にいようと思ったのだが――――どうやら佳主馬にはやらなければいけないことが出来たようだ。 「あの教授うるさいんだよな……」 「でもそれ、今日提出でしょ? 今から帰って……間に合わないかさすがに」 「気付くのがもっと早ければとってこれたんだけどね」 さすがに一時間ではギリギリだろう。何より次の講義の教授は提出物にもうるさいが出席にも厳しいのだ。少しでも遅れればペナルティが科せられる。 どちらのほうがいいか鑑みて、佳主馬はため息をつくと携帯をジーンズのポケットに捩じ込んだ。 「……行って来る」 「行ってらっしゃい」 長々とされるだろう説教を思い浮かべ顔を歪める佳主馬を、水色は苦笑しつつ見送った。 ――――それが、三十分前の出来事だ。 「どうぞ」 「あ、ごめんね。ありがとう」 「いえいえ、紅茶で良かったですか?」 「うん。本当にごめんなさい、気を使わせちゃって……」 「そんなことないですよ。気にしないでください」 向かいの席の彼女へ、邪気無く水色は柔らかに微笑んだ。 正直、好みの範疇外ではある。 年上だろう。しかし年上といえど水色の好みは酸いも甘いも噛み分けた、割り切って遊べる『お姉さま』だ。彼女のように可愛らしい女性は可愛いと思いはすれど、手を出す気にはならない。 そのことを安堵する自分にこっそりと苦笑する。せっかくできた面白い友人の彼女と、だなんて泥沼には落ちたくないのだ。彼女はとてもとても可愛らしいが、その可愛らしさはきっと佳主馬が大事にしてきたものなのだろう。彼女の雰囲気からそんなことを感じ取った。 そう。 彼女は、どう考えても噂の『佳主馬の彼女』だ。 『……少し気弱なところもあるけど、いざって時は凄く強くて。普段はぼーっとしてるし数学に集中しだすと周りが見えなくなって困る人だけど、臆病なくせに頑固で一度決めたら動かなくて。それで……自分のことには鈍いけど人のことには敏感で、実は意地っ張りなけっこうさみしがりやの、優しいひと』 正直佳主馬がそんなに喋ったのは初めてなんじゃないか、というくらい語ったのがそれだった。 こっちが照れそうなほど甘い声で。隠している宝物をそっと見せるように、静かに佳主馬は語った。 一人の友人はそれを「べた惚れなんだな」と笑ったが、水色はそれに同意し笑いながらも少し苦しかった。……少しだけ羨ましい、と思ったのだ。そんな風に甘い声で語ることの出来る、愛しい人がいる佳主馬を、ほんの少し羨ましく思った。 ……今更ではあるのだけれども。 自分を見ない母と袂を分かち、年上の女性と付き合いを重ねた自分には届かないもの。 それが少しだけ、寂しいのかもしれない。 うっかり目の前の人を忘れて思索に耽っていると、不意に小さな声がして慌てて水色は顔を上げた。見ると彼女の顔がどうしてかキラキラと輝いている。 何を眺めているのかと首を傾げると、彼女は机に置いてあった本を見つめていた。佳主馬がいない間暇つぶしにやっていた数学の問題集だ。そんなものにどうしてそんな反応を? 「わー……これ、君の?」 「え? あ、はい」 「数学、好きなの?」 「はい」 「僕も数学大好きなんだ!」 ふわっ、と彼女が嬉しそうに破顔する。 ――――……うわ。 どきり、と一瞬胸が高鳴った。 本当に嬉しそうに、まるで無垢な幼子のような笑みで彼女が笑う。それなのに、その笑顔はどこか眩く美しく。 可愛らしいのに綺麗で、それでいて無邪気な子供の笑顔。 ……こりゃ、池沢が見せたがらないわけだね。 友人の心情を思い、水色は心の中で苦笑した。 「結構専門的なやつだね……学科?」 「ああいえ、趣味です。前に友人に薦められてやってみたら意外と面白くて」 「一度解けると楽しくなるよね」 「そうですね。僕はあんまり勉強が得意じゃないんですけど、暗号とかを解くのは好きなんで、いつの間にか楽しくなってました」 「そっか。あ、良ければ面白い問題集とか教えるよ?」 「本当ですか?」 「うん! 僕は数学専攻だし、これくらいのレベルが出来るならもう少し……」 その時、ふと彼女は言葉を切った。それから顔を水色のほうに向け、じっとこちらを見つめてくる。何か失礼なことでもしてしまったかと、水色は内心焦りつつ首を傾げた。 「……あの……?」 「……佳主馬くん、元気かな」 「は?」 ぽつりと零された音に、さすがの水色も目を丸くした。 佳主馬と彼女は同棲している、と思っていたのだが……違うのだろうか。 何と言っていいか解らず言葉を失った水色に、彼女がハッと何か気がついた顔をする。慌てたように手を振って、彼女は頬を赤くし恥ずかしそうに笑った。 「ご、ごめんね間違えた! そ、その……学校、楽しそうかなぁ、って……」 「……ああ」 そういうこと、ならば。 「最初はかなりとっつきにくくて」 「え?」 「群れるのなんて嫌い、みたいなオーラを放出しまくって話しかけにくいことこのうえ無かったですね。でも僕は池沢くんが気になってたんで、初めて話せた時は楽しかったです。池沢ってなんか……そう、王様みたいな雰囲気持ってるから余計に」 「…………鋭いんだね、君」 「え?」 「あ、ごめんねなんでもない!」 「……まぁ、初めて話してから少しずつ仲良くなって……僕の昔からの友人たちとも仲良くなって。今は僕と、それから浅野啓吾っていうのと池沢とで大体行動してます。嫌がらないってことは池沢も楽しんでるんだろうし、友人関係は良好なんじゃないかなって思いますよ。もちろん、僕から見ればの話ですけど」 「う、ううん! ……佳主馬くん、嫌な人なら一緒にいないから。だから、小島くんたちと一緒にいるのが楽しいんだと思う。……たまに話はしてくれるけど、やっぱりちゃんと聞くと嬉しいね」 嬉しそうに微笑む彼女が、すぅっと表情を変えた。 それは暖かく優しく。ただ可愛らしい少女の笑みとは違う、慈愛と母性溢れる笑みで。 「佳主馬くんがさみしくなくて、良かった」 そう言って、笑った。 「……ふむ」 前言を撤回しよう。…………けっこう好みかもしれない。 自分の友人と、少し性質が似通っているような気がする。性格は違うけれども。佳主馬が言っていた通り、芯は強い女性のようだ。 佳主馬の彼女でなければ、欲しかったのに。 世の中、なかなか上手くいかないものだ。 ドダダダダダダダダ…………ッ!! 「……あ」 「え?」 「戻ってきたみたいですよ」 廊下から響く地鳴りのような足音にニコリと笑っていると、ダンッ!! とけたたましい音をたてて扉が開いた。 飛び込んできた友人は荒い息を整える間もなく一直線に彼女へ向かう。 「――健二っ、さん!」 「佳主馬くん!」 がたっと音を立てて彼女は立ち上がると、肩で息をする佳主馬の傍へと駆け寄った。 「ど、どうして……っ」 「この近くに用事があったから。佳主馬くん、昨夜せっかくやってたレポート忘れてっちゃったし」 「な、んでっ」 「佳主馬くんがここのこと話してくれるでしょう? だからここに来れば佳主馬くんを知ってる人に会えるかなって思ったんだ」 「でも、」 「用事ならもう終わったから大丈夫。そんなに待ってないし、小島くんが居てくれたから」 「……そう」 …………ええと。 「どうして」「なんで」「でも」だけで言いたいことが解るんデスカ……? 「それにここ最近僕も忙しかったから、一緒に外で食事でもしようと思ったんだ。次の講義終わるまで待ってるよ」 「家で待っててくれて良かったのに……」 「佳主馬くんの大学、見てみたかったんだ」 「別に見るところなんて、」 「だって、どんなところで勉強してるのかとか、佳主馬くんのことなら僕は何でも知りたいよ?」 「……っ」 「……迷惑だった?」 「まさか! 俺が健二さんを迷惑に思うなんてあり得ないよ」 「良かった。邪魔って思われたらどうしようかと思ってたんだ」 「邪魔だなんて……会いに来てくれて、すっごく嬉しいよ。ありがとう、健二さん」 「佳主馬くん……」 ………………誰だろう、このヒト。 密林の孤高の王。 冷静沈着、何事にもあまり動じないクールでカッコイイ池沢佳主馬はどこに行った? この、でろっでろに甘い空気を作り出す男はいったい誰だ。 「なんか変な男に声かけられたりしなかった?」 「え? 変な人なんていなかったよ? あ、でもこの大学の学生さんって親切な人多いね。僕が道解らなくてうろうろしてたらたくさん教えてくれる人がいたよ」 「…………男?」 「? うん」 「…………健二さん、もう少し自覚して……」 「え? え?」 額に手を当てて天を仰ぐ友人に、少しばかり同情した。 鈍い彼女を持つと苦労するんだなぁ……。 「あ、これレポート」 「ああ、うん。ありがとう。……これだけ出して出てこようかな……」 「え、駄目だよちゃんと出なきゃ!」 「でも健二さん一人で待たせておきたくないし」 「別に僕は大丈夫だよ。カフェテリアとかで待ってるから」 「だめ。待ってて、これだけ出してきちゃうから」 「佳主馬くん!」 「――――僕とここにいればいいんじゃない?」 「「え?」」 仲良くハモった声にニッコリと笑ってみせた。 二人の視線の温度差が妙に楽しい。 「ここなら他の人間も来ないし暇つぶしのパソコンだってあるし、何より僕と彼女さんは話合うみたいだし。まだ時間があるから、池沢の講義が終わるぐらいまでならいられるよ?」 「え……いいの?」 「もちろん。……池沢の学園ハッピーライフ、聞きたくありません?」 「! 聞きたい!」 「っ、小島!」 「出てきなよ池沢。大丈夫、僕は人の物には手を出さないから」 「…………変なこと吹きこまないでよ?」 「解ってるって」 “面白い”ことは吹き込むけど。そんな水色の心の声が聞こえたのか、佳主馬は苦みばしった表情で水色を睨む。しかし当の彼女が酷く嬉しそうなので止めることも出来ない。 「……行ってくる」 「行ってらっしゃい!」 「そうそう、次の講義啓吾も一緒だろうから、それで遊べばいいよ」 「……そうだね」 鞄を持った佳主馬の顔が凶悪な笑みを浮かべた。 次の講義は啓吾とあと友人二人が一緒のはずだ。啓吾には悪いが、後でご愁傷様と声をかけてやろう。もっとも声が聞こえる状態でいられるかは解らないが、王の獲物になるなら光栄ということで。 「一人でどっか行ったりしないでね。どこか行くならせめてこいつ連れて行ってよ?」 「そんなに心配しなくて……あー、やっぱり部外者が出歩くとまずいってこと……?」 「……うん、まぁそうかもね」 「わかった。気をつけるね」 こくりと頷く彼女に、佳主馬は安堵したように息を吐き出す。そして扉に向かおうとして――ふと、彼女の腰を引き寄せた。 「え、」 そして、 唇が素早く重なり、音をたてて離れた。 「行ってきます」 「――っ!! 佳主馬くんの馬鹿ぁっ!!」 「……うーわー……」 さすが池沢佳主馬というべきか。 あれは自分への牽制だ。キスした時に一瞬こちらを見た視線が物語る。『これは自分のものだ』と告げる瞳は鋭く、気高い王者の眼差し。……怖くて手なんて出せやしない。 真っ赤になって怒る彼女を置いて、佳主馬が部屋を出て行く。あー……!! と蹲る彼女に苦笑し、新しい紅茶を淹れ直しながら、ふと重要なことに気がついた。 「……そういえば」 「?」 「お名前聞いてもいいですか?」 「……ああ!」 蹲っていた彼女は直ぐに立ち上がると、まだ照れたように苦笑しつつも真っ直ぐにこちらを見つめる。猫背気味の背筋をしゃんと伸ばし、淡い笑みを浮かべた。 「小磯健二っていいます。よろしくね、小島くん」 「はい、よろしくお願いします」 さて、何から吹き込もうか――と、水色は楽しげに笑った。 彼らの傍は、居心地がいいに違いない |