私のガールフレンド

 思えば、彼女を選んだのは必然だったのかもしれない。


 人の熱気でそれなりに暖かい教室とは段違いに冬の廊下は寒々しい。放課後の喧騒はもっぱら外から響いてくるばかりで、校舎内は静かだった。
 誰ともすれ違うことなく目的地に辿りつくと、何時ものようにノックもせずにドアノブを回す。ガチャリ、と立て付けの悪い扉が音を立てたが室内の人物がこちらに顔を向けることは無かった。
 解ってはいたのだが、さすがに苦笑するしかない。
 これが他の人間で、彼女に良からぬ感情を抱いた輩だったらどうするのだろうか。
 彼女自身、ひいては周囲の人間も、まだ彼女の魅力に気がついているものは少ないが、それでもこの夏を経て変わった少女の変化は隠しきれるものではない。そのうちに気がつく人間が増えるだろうことは予測の範囲内だ。
 まぁ、そんな不逞の輩から彼女を守るのは私の仕事だけれど――――と愛用の竹刀を背負いなおしながら、夏希は物理部へと足を踏み入れた。
 カリカリカリカリ……と一心不乱にペンを紙へ走らせる音が響く。机の上には乱雑に散らばったレポート用紙と英語の数学書。見覚えのあるそれは確か、侘助が彼女に渡したものではなかっただろうか。
 空いているパイプ椅子を引き寄せて荷物を床に降ろす。キィ、と椅子が音を立ててほんの数十センチ先まで接近してもまだ彼女は気がつかない。それが面白くて黙ったまま彼女の横顔を眺めた。
 真剣に紙に向かう彼女の顔は綺麗だ。
 いつもはどこかおどおどと気弱そうな表情を見せている彼女だけれども、ひとたび数字と対峙すればガラリとその意識を変える。日頃丸まっている背中は更に丸まりつんのめるようだが、その顔はまるで常とは違う。
 唇は硬く引き結ばれ強い眼光は紙面を追う。そこには少し内気な少女の面影はまるで無く。
 外界に一切意識を向けず、ただひたすら数字と相対する姿は一種のトランス状態にも見える。いや、実際そうなのだろう。こと数学のことになると彼女は止まらない。
 その姿を、美しいと思う。ピンと張り詰めた、試合の前の張り詰めた空気に似ているこの空気がどこか心地よい。そして何よりも集中した彼女が綺麗で飽きないのだ。

 出会ったのは去年の夏休み。一年経って、いや経つうちに彼女が特別な存在になっていたのだと気付いていなかった。
 どうして疑問に思わなかったのだろう。恋愛にそこまでの重きを持たなかった自分が、代役とはいえ彼女を選んだことに。もちろんこんな無茶な頼みを聞いてくれて、そして変に勘違いしない子を選んだつもりだったけれど、それでもそれを思いついた時彼女以外の人間なんて考えもしなかった。
 きっとそれを偉大な曾祖母は見抜いていたのだろう。夏希が自分でも気付いていなかった恋心。淡い感情。ベクトルの向きは真っ直ぐに彼女に向かっていたのに、ここまでしないと気付けなかった。
 自分はそんなに鈍感でないと思っていたのに。
 ……いや、彼女が自分を好きなことに気がついていなかったのだからやっぱり鈍感だったのか。

 ビリリ、とレポート用紙が破られる。複雑な計算式がみっちりと書き込まれた紙はひらりと宙に舞い、床に落ちた。それを拾い上げて机に戻す。戻すときに少し読んでみたけれど解るところなど少しも無かった。
 解るのは、健二が『凄い』のだという、ただそれだけ。
 さら、と零れた髪が頬にかかる。少し伏せられた睫毛が長い。首筋のラインが白くて眩しい。あの夏にも思ったけれど、こうして厚着になった今ではそれがとても貴重に思える。ちょっと触れたい。
 とりとめもない思いが後から後から泡のように浮かんでくる。


『まだ、負けてません』


 ただの後輩の少女の、はずだった。
 内気でぱっとしない地味な少女。優しくて丁寧で、どこか少し寂しそうな笑顔を見せる子。
 それなのに、あの二日間で初めて見た彼女は夏希が今まで見てきた彼女とはどれも違っていて。
 あんなに綺麗な横顔を初めて見た。背筋を伸ばして瞳に光をたたえ、強く言葉を発するのを初めて聞いた。それはまるで夏希が生涯で一番尊敬しているだろう、あの曾祖母のような凛とした強さ。
 気付くことが出来て本当に良かった。今年の夏に失ったものはとても大きい。けれど得たものもまた大きい。今もまだ一生忘れられない痛みはあるけれど、それがただ悲しみをもたらすだけのものにならなかったのもまた、彼女のお陰なのだ。

 夏から今まで、たくさんの発見があった。
 家でほとんど一人なせいで料理や家事全般は出来ること。辛いものがちょっと苦手で、甘いものは和でも洋でも何でも大好きなこと。虫が苦手ですぐ悲鳴をあげてしまうし、動物も少し怖い。でもハヤテには慣れた。小さな子供と触れ合うことに慣れていないのに、意外と扱いがうまい。
 少し茶色がかった髪はふわふわの猫毛。目は間近でみるとぱっちりとしていて、実は二重。肌は肌理細かくて白い。手首が細くて腕も折れてしまいそうなのに、存外力はけっこうある。
 華奢でスレンダー体型。パンツスタイルが楽だけれど、スカートも最近は履くようになった。髪も少し伸びてきた。
 笑顔が可愛い。はにかんだり、困ったような、でも嬉しさを隠せない笑顔。どこか諦めの混じった寂しげな笑顔。泣き出しそうな瞳でも彼女は笑う。
 たまに怒る。友人の佐久間には見せる怒り顔も可愛い。膨らんだ頬や眉間に寄った皺も、全部可愛く見えてしまう。
 ああこれが恋なんだ、と思って嬉しくなるのだ。


 カタン、とペンが机に落ちて音をたてた。
「解けたぁ……」
 満足そうな声とため息。滲み出る嬉しさにふっと笑って手を数度叩いた。
「お疲れさま、健二くん」
「…………へ? え、ええぇぇっ!? 夏希せんぱいっ!?」
 一瞬目を見開いて、それから健二が悲鳴をあげて椅子から派手に立ち上がる。その驚きっぷりにやはり気付いていなかったかと苦笑しつつ最後のレポート用紙を束ねた。
「随分長くやってたんだね。いつもよりも枚数多いんじゃないかな?」
「い、いつから来てたんですか!?」
「うーん……三十分前くらいから?」
「さん……っ!? き、気付かなくてすみません!」
「いいよ、問題解いてたなら仕方ないし。健二くんが解いてるのを見るの、私は好きだから」
 にっこり笑ってそういえば健二の顔が赤く染まった。頬を押さえて恥ずかしげにため息をつく。
 そんな彼女を見るのも好きなのだけれど――――小さく聞こえてきた、聞き捨てならない名前に顔が引き攣った。

「……またやっちゃった……佳主馬くんからも気をつけなよ、って言われてたのに」

「…………佳主馬?」
 ぴく、と肩が動いた。思わず名前を呟けば「あ、はい」と健二は照れたように笑う。
「問題を解いてると、つい他の事を忘れちゃうし周りで何かあっても気がつかないんだ、って話をしたら『せめて人が来た時くらい気付かないと駄目でしょ』って言われたんですけど……」
 そもそも、そんな話をいつ佳主馬としていたのだろうか。
「……へぇ。佳主馬とは結構連絡とってるみたいだね?」
「あ、はい! 佳主馬くんOZにいる時はいつも話しかけてくれて、この前もOMCの特別招待券もらっちゃったんです! キング・カズマがあんな近くで生で見られるなんて、僕すっごく嬉しくて……!」
「それは良かったね」

 ………………全然良くない。

 知らぬうちに交流を深めていたらしい従姉妹に思わず眉が寄った。
 油断も隙も無い。確かにあの時の彼女を見て惚れてしまう気持ちは男として解るが、それにしたって行動が早い。さすがキングというべきだろうか。
 四歳年下とはいえ侮っていた、と夏希は健二の嬉しそうな顔に表面上は笑顔を浮かべたまま考える。
 そのうちに牽制しておくべきかもしれない。大人気ないかもしれないが相手はキング・カズマだ。しかも健二は前から大ファンで、佳主馬とも仲がいい。用心するに越したことはないだろう。
「夏希先輩?」
 黙ってしまった夏希に健二が不思議そうに首を傾げた。思わず意識を飛ばしてしまっていたことに気がついて、夏希は慌てて健二に顔を向けて笑みを浮かべた。
「ああ、ごめん。ちょっと違うこと考えてた。えっと、何かな?」
「あ、はい、その……夏希先輩はどうしたのかなって」
「え?」
「いや、あの! メールでも電話でも無くって、先輩がわざわざここまで来てくれたってことは何か用事があるのかなって……!」
 しどろもどろになって小さくなる健二に夏希はくすりと笑う。もうそんな畏まらなくてもいいのに、と少し寂しい。佳主馬には砕けた態度を見せているからこそ、より一層。
 所在無さ気にふらつかせる健二の手をとる。きゅっと指先を握り締めれば健二は一瞬きょとんとしてから顔を徐々に赤に染め上げていく。「せせせせせ先輩!?」とどもる彼女の顔を見つめながら、夏希は満面の笑顔を浮かべた。
「用事なら、ここにあるでしょう?」
「え?」
「健二くんがいるなら、それがどこだって私の行く理由になるよ」
「ええ?」
「……だって、君は」
 白く細い指先に、そっと口付けて。

「君は私の婚約者、でしょう?」

 そうすれば可愛い彼女の顔が一気に真っ赤に染まって。
 困ったような照れたような、けれど嬉しそうな笑顔がそこに浮かんだ。


 お前にはあげないよ、佳主馬。
 健二くんは確かにもう陣内家の人間だけれども。

 それ以前に“私のお嫁さん”なんだから、ね?


王様にだって、あげやしないよ