絡めた指の温度に願う

「健二くんって、天才なんだね」

 ぽつりと、呟いただけだった。
 ただ本当に、何の含みも無く落とされただけの言葉。しいていうなら、きっと彼は驚いて、そして照れて真っ赤になって慌てるだろう。そんな可愛らしい反応が見たいと思っただけ、だったのに。

「……僕は、天才なんかじゃないですよ?」

 返ってきたのは困ったような、どこか憂いを帯びた笑みだった。



「……どうして?」
 想像した反応と正反対のリアクションが返ってきたことに夏希は驚く。首を傾げて問いかければ、ますます健二の苦笑が深まった。
「あんなに早くて凄いのに」
「あの時は無我夢中でしたし」
「でも佐久間くんも言ってたじゃない。暗算で、しかも制限時間があれしかなかったのに解けたのは神業だって」
「火事場の馬鹿力、ってやつですよ」
 ただの謙遜とは少し違うそれに、夏希はただ首を傾げるしかない。
 二分足らずであの2000桁以上の暗号を、しかも暗算で解くなんて考えられないと侘助も言っていた。
『俺じゃあ無理だ。世界中探したってこんなのを暗算で、しかも制限時間一分と少しで解ける人間なんて早々いやしねぇよ』
 呆れたように紡がれた言葉は、そのまま侘助なりの最高の褒め言葉だろう。こっそり感嘆のため息をついていたのを夏希は見逃していない。あれは確かに賞賛で、そして証明なのだ。
 彼は、健二は凄い。
 そんな彼の傍に居られることを嬉しく思う――のに、どうして彼は浮かない顔をしているのだろう。
 夏希の納得いかない、という表情に気づいたのか。健二は少し困ったように笑ってから視線をレポート用紙に落とした。
「僕がひとりっこで、父は単身赴任中で母もあまり帰ってこない、というのは話しましたよね?」
「? うん」
「だからひとりの時間がとても多くて。……少しでも両親の気を惹く方法がないかな、って考えてそれで」
 勉強すればいいのかな、って思ったんです。
 その言葉に、夏希は何かを傷つけてしまったことに気付いた。


「あ、でも誤解しないでください。最初はそんな動機でしたけど、結局は数学が本当に大好きで、ほかの勉強はそんなに胸張れるほどでもないんです」

「それにもう趣味っていうか、無くちゃならないものですし。別に誰かに褒めてもらいたくてやってるわけじゃりませんよ?」

「あとは……そうですね、数学の世界に浸っていれば、解けないことはない世界にいれば、答えが必ずある世界にいれば、怖くなかったんです」

「天才っていうのは侘助さんのような人のことですよ。僕は数学が人よりちょっと好きで、好きだからこそ何度も何度も繰り返していただけなんです。得意なのも解けるのも、それだけ他にやることが無かったってことだけですよ。たまたまなんです」


 ――――間違えたと、夏希は思った。

 そしてひどいことを、馬鹿なことを言ってしまったと後悔した。

 彼が言っていることは悲しいことだ。
 褒めてもらわなくてもよくなったのは、諦めたからだ。数学の世界にのめりこんだのは現実が怖かったからだ。やることが無かったのは、時間があったというのは――――彼が、ひとりだったからだ。
 言っていたではないか。

『家ではいつもひとりで』
『大勢でご飯を食べたり』
『ご飯、美味しかったです』

 彼には夏希の家族のような、親戚たちがいない。いたとしても疎遠なのか、そもそも夫婦仲が良くないのならば家はさみしいままだ。彼は、ひとりだったのだ。ずっとひとりきりだったのだ。

 ああ確かに健二は天才ではない、彼は秀才なのだ。努力し、精進してきたからこそのその才能。何もせずに使える才能はまさしく天賦の才であるが、彼はそれと自分が違うことをちゃんと解っているのだ。
 天才などと安直に言うのではなかった。彼をただ盲目に天才と呼ぶのは健二を侮辱し、貶めることだ。
 頬が熱い。咽奥が僅かに引き攣る。
 熱いものが胸にこみ上げてきて、じわりと浮かぶのは羞恥と後悔。

「ごめん、ね」
「え、せ、先輩?」
「ごめんね、健二くん」

 本当はごめん、だってひどい言葉だ。だけど言わずにはいられなかった。
 ああ、本当に、自分の無神経な言葉で彼をどれだけ傷つけてきたのだろう。似たようなことを前にも言った記憶がある。確かその時も彼は困ったように笑っていて、自分はそれを特に気にせずにいたけれど。今は。
「ごめんね」
 涙は絶対に流さない。それだけはしない。本当に悲しいのは私じゃない。
 謝る夏希にぎょっとして、途端に少し前の大人びた表情を掻き消しおろおろと慌て始めた健二に、夏希は少しだけ笑う。
 優しい彼。ちょっと頼りなくて、でもとっても優しくて、そして悲しくて、本当は強い。
 今こうして傍にいられることを嬉しく思う。
 そうして、そっと傍にあった指先に指を絡めた。

「……好きだよ」

 そう言って笑えば、健二は今度こそ首筋まで真っ赤になって硬直する。
 そんな姿も可愛くて大好きで、夏希は楽しげに笑い声をあげた。


傍にいるから、もうなかないで