玉箒で憂いを払いて

 ――――遅くなってしまった。

 スピード制限ギリギリで帰路を急ぎながら、佳主馬は家にいるはずの恋人を思い浮かべた。最愛といえるその人物を思い出すと同時に僅かな苛立ちがよみがえり舌打ちをする。
 一時間前に入った一回の着信のあと、何度かけ直しても彼女に繋がらない。
 何かあったのか。家にいるのか。外に出て、その連絡なのだろうか。それとも、それとも。
 頭を過ぎる嫌な想像を振り払うようにアクセルペダルを踏む足をほんの少し強めた。これくらいなら大丈夫だろう、たぶん。事故にさえ気をつければ。
 ああまったく、どうして誘いを断らなかったのだろう!
 数日前の自分を殴り飛ばしたい心境に駆られながら、佳主馬は眉を寄せて唇を噛んだ。

 大学に入学し、学びたいことだけ学べればそれでいいと、サークル活動や友人を作ることに積極的になろうとしなかった佳主馬に健二はいい顔をしなかった。
『人間関係って大事だよ』
 僕も苦手ではあるけど。そう言いつつ、何かしらのサークルにでも入ってみたらどうかと彼女は佳主馬に進めた。中学、高校はそれなりに友人もいたけれど大学は基本的に個人行動が多くなる。それゆえに友人も作ろうとしなかった佳主馬を見兼ねたのだろう。
 友人を作るよりも健二と一緒にいるほうが大事だとは思ったが、彼女があまりにも心配するので剣道のサークルに入ってみた。入る、といってもまだ仮だが。
 そのお陰か数人の知り合いやつるんでくる友人もそれなりに増えて、煩わしい人間やテンションが高すぎて疲れる人間もいるが、とりあえず一人でいる、ということは無くなった。別に佳主馬は一人でもいいのだけれども、健二が友人の話をすると嬉しそうなのでそのまま誰かと一緒にいることが多い。
 今日はそのサークルの飲み会の日だった。

 飲み会といえど佳主馬は酒は飲んでいない。安い飲み放題の酒では酔うことも出来ないしあまり旨くもない。そもそも車で来ているのだが飲めないのだけれども。ともかく、佳主馬は適当に端のほうで顔を出すぐらいにとどめさっさと帰ろうとしていたのだが、それを先輩の一人が邪魔したのだ。
『高坂が池沢のこと好きらしいんだってよ!!』
 高坂って? と佳主馬が聞き返すよりも早く場がわっとざわめいた。
 佳主馬の右斜め前に座っていた女子の顔が真っ赤になり、先輩の男に駆け寄り抗議の声をあげる。ああ、あれが高坂なのかと初めて認識したところで件の先輩がにやにやと佳主馬を見た。
『どうなんだよ池沢! 高坂かわいいし、お前ら付き合っちまえばいいんじゃねーの?』
 酔っ払いは言うことがおかしい。
 佳主馬が眉間を寄せると同時に周りの男子や女子も囃し始める。佳主馬の隣にいた、唯一近しい友人と言える男が苦笑するもそれ以外に佳主馬の様子に気がつくものはいない。
『え、じゃあ弥生が違うならあたしも池沢くんと付き合いたいな!』
『ちょ、亜美!』
『なんだよ高坂違うのかぁ〜?』
『どうなんだよー!』
 高坂弥生、というらしい少女は周りから囃し立てられ真っ赤な顔で泣きそうになっている。佳主馬のほうも男子からつつかれたり女子からはラブコールや声援が飛んできて、徐々に苛立ちが増す。
 隣の友人がそれを宥めるように諌めるものの、酒が入っている人間は制止など聞きやしない。
『告白しちまえー!』
『チューしろ! チュー!』
 やんややんやと野次が飛ぶ。いい加減面倒になってきたので帰ろうかと佳主馬が腰をあげた瞬間、ポケットの中の携帯が震えたのに気がついた。
 急いで取り出した携帯のディスプレイには「健二さん」の文字。
『え……』
『池沢?』
 友人が首を傾げ見上げてくるのに待って、と言いつつ通話を押そうとして――後ろから突然突進され携帯が手から転がり落ちた。
『な……っ!』
『こらー!! どこ行く気だー!?』
『トイレなんかにゃいかせねぇぞー!!』
『男だったら腹決めろー!』
 酔っ払いと化した数人に抱きつかれ縋られ畳にもう一度座らされる。振りほどこうともがくも酔っ払いたちはべったりひっついて離れない。
 やがて暫く震えていた携帯が止まったのを目にした瞬間。


 ――――何かがプチリと切れる音を聞いた。


『…………離せ』
『へぇ?』
『離せ、って言ってるんだけど』
 低く低く唸るように漏れた声に、佳主馬にへばりついていた酔っ払いたちが一瞬震えて手を離した。
 しん、とその場が一気に静まり返る。
 佳主馬から放たれる絶対零度のオーラに、ざわついてた場は水を打ったように静かになった。自由になった体で転がっている携帯をとると直ぐにリダイヤルする。
 何度かかけ直しその度に留守番電話の無機質な声を聞くと、佳主馬は荷物を持って立ち上がった。
『会費何円だっけ』
『3500』
『パス』
『了解』
 友人に五千円札を渡すと心得たような笑みが返ってくる。この友人だけはこれからも仲良く出来るだろう。健二は確かに正しかった。
『いけ、ざわ?』
 おっかなびっくりといった体の先輩、同学年、そして高坂を順々に見てため息をつく。
 本当ならこういうことは静かに終わらせるべきだ。それに場を盛り下げてしまったことについては申し訳ないとも微かに思う。

 けれど佳主馬の優先順位一位は、未来永劫たった一人のものなのだ。

『……高坂、だっけ』
『え、あ、うん』
 名前を問いかけられたことに、少女の目が見開かれて直ぐに歪められる。聡い人間なのだろう、その一言だけで自分に望みがないと気づいたらしい。彼女は困ったように笑うとごめんね、と返してきた。
『騒いじゃってごめんね?』
『別に。悪いのは先輩たちでしょ』
『い、池沢……』
『すみませんけど、俺先に帰ります。――――彼女に電話が繋がらないんで』
 ぎょ、っとその場の人間の顔が驚愕に染まった。
『え、えええええ』
『お、お前彼女いんの!?』
『今年で四年になりますけど。俺が卒業したら結婚する予定ですけど』

 それが、何か?

『しかも三年越しの片思いの末にやっとだもんねー、べたぼれだもんねー』
 のんびりとした友人の声があっけらかんとその場に響く。誰も彼もが硬直した中で、佳主馬は高坂に頭を軽く下げると友人の肩を叩いて座敷を出て行く。
『彼女さんによろしくー』
 間延びした声に手を振って、佳主馬は車を止めた駐車場へと急いだ。




 あれからもう一時間。何度健二に電話をかけても繋がらない。
 焦りと苛立ちがピークに達しかけたその時、やっと自宅のマンションが見えてきて佳主馬は急いで駐車場に車を止める。荷物を引っつかむとエレベーターを待つ時間すら惜しく階段を駆け上がった。
 さすがに息を弾ませて家の前につくとドアノブが閉まっていることを確かめ鍵を取り出す。もどかしく思いながら鍵を開けて、家の中へと飛び込んだ。
「――――健二さん!!」
 廊下の向こう、リビングには灯りがついている。がちゃ、と同時に扉が開いてそこから覗いた顔にほっと安堵で胸を撫で下ろした。
「……かずま、くん?」
「うん。健二さん、ごめんねただいま……」
「かずまくんだぁ〜!!」
「うん、え?」
 何でひらがな? と目を瞬かせた佳主馬に廊下をぱたぱたと駆けてきた健二が、飛びこむように抱きついてきた。その勢いに驚きながらも細い体を抱きしめて、佳主馬は彼女に声をかける。
「健二さん?」
「うーん……?」
 すり、と胸に擦り寄ってくる彼女はとてもとても可愛い。
 可愛いの、だが。
「お酒、飲んでる……?」
 酒の匂いが物凄く、する。
 甘い香りからして果実酒ではあるのだろうけれど、ここまで解りやすく酒の匂いがしたことはなくて佳主馬はぎょっと健二の顔を覗きこんだ。
「ふぇ?」
 とろん、と目は潤み頬は薔薇色に染まり唇はうっすらと半開きになっている。
 情事を思い出させる表情に、下半身が熱を集めそうになるのを必死で抑えると擦り寄ってくる健二を抱きかかえた。
「健二さん? 大丈夫?」
「だいじょぉーぶー」
 えへへへ〜、と笑う彼女は絶対大丈夫じゃない。
 何も無くて良かったと思いつつも、気が抜けて脱力しそうになる足を奮いたたせる。ぐでぐでの健二を抱き上げて宥めるように背中を撫でながらリビングに入り――――目にしたテーブルの上の惨状に、佳主馬は顔をひきつらせた。

「…………けんじ、さん……」
 まさかあれ、全部飲んだの。

 机の上に散乱したスモークチーズの包み紙。それと有名コンビニ店で売っているつまみちっくなキャベツサラダ。それとポテトチップス、ポッキー。
 そこまではいい、問題は。

「おいしかったよー、あれ」

 空っぽの、梅酒のボトル。
 しかも製氷皿がそのままあるところを見ると、ロック。
 ……しかも他にフルーツカクテルの缶だとかまで転がっている、ような。

「飲みすぎでしょ!?」
「んー……」
 半ば青ざめながら健二を見ると、彼女は眠そうに目を擦りながら佳主馬に抱きついている。酔ってはいる。べろんべろんに酔ってはいるが、どうやら具合が悪いようには見えぬ様子に少しだけ安堵した。
 しかし、あれだけの量を一人で飲むなんて。いやこう見えて健二は酒に強いけれど、だからっていくら何でも体に悪い。ここまでへべれけになっている彼女を見るのは初めてだ。
 いったい何があったというのか。
「健二さん、何かあったの」
 電話もしてきたでしょ? と戻ってきた心配に腕の中の彼女へ声をかければ、健二はぱちっと閉じかけていた目蓋を開きがばりと佳主馬と向き直った。
「そう! そうなんだよ!」
「えっ?」
「ほんと、ありえな……っ!!」
 突然だぁぁっ! と滂沱の涙を流し始める健二にぎょっとする。しゃくりあげながら佳主馬の服を掴み、酔っ払いの恋人は訥々と語り始めた。
「そりゃ、ね! ぼくはすーがくだけだけど! でもすーがくならうちのがっこーでもすごいほうじゃないかな、とはおもうんだ!」
「それは、まぁ、健二さんだし……」
 大学院に行って教授の覚えめでたく、さらに高校三年生の時は数学オリンピックも出場して優勝は惜しくも逃したものの好成績を収めているのだから、そりゃあ人より抜きん出ていることだろう。
 いまさら何を言っているのかと首を傾げれば、健二は珍しくも憤懣やるかたなし、といった様子で拳を握り締めた。
「だから、さいしょはぼくにきまってたのに……!!」
 それを、あの男がとってったんだ!!
「…………はい?」
「ぼくが、ぼくがいくはずだったのに……!」

 あんな、ポッと出の男にとられるなんてぇぇぇぇっ!!

 ……まるで彼女を盗られた男のような台詞だ。
「ろんぶんだってかんぺきだったのに! あの人よりもぜったい、がんばったのに、それなのに……!」
 りゅーがくけいけんがあるから、なんていうりゆうでかわるなんてしんじられなぃぃぃ!!

 おーいおいおいと泣く健二に佳主馬は一度目を閉じ、それから開いてカレンダーを見やった。
 そうだ、確か今日は。
「……学会同行者決め……」
 確か健二の所属するゼミの教授がアメリカだかの学会に呼ばれているから、それの同行者を決める日が今日だと言ってなかっただろうか。
「……駄目だったの?」
「……ろんぶん、の、ないようは、いい、け、ど……!!」

 ぶんしょーがちょっとまちがってたりするから、もうちょっとよくなってから、って……!!

 わぁぁーん! と幼子のように大泣きする健二を横抱きにしソファに座ると、佳主馬は深く肺の中が空になるほど息を吐いた。
 ………………つまり、これはヤケ酒というわけか。

「そういや健二さんの英語力って……」
 数学はトップクラス。他の学問も上位レベルだというのに、英語だけはどうしてもギリギリだったことを思い出す。
 夏希の“彼氏”のフリをし陣内家へやってきて、そこで作られた経歴に触発されたのか、彼女は見事東大合格を果たしている。結局、東大には行かずに他の数学で有名な教授のいる大学へ行ったのだが、その理由も英語の成績だったことを思い出して佳主馬は少しばかり遠くを見やった。
 わんわんと声をあげて泣き続ける健二の頭を撫でて、こっそりため息をついたあと苦笑する。

 ……ちょっとだけ良かった、なんて思っていることなど彼女には言えない。
 もし学会に行ってしまったら三ヶ月近く会うことが出来ない、と聞いたのは数週間前の話である。英語に四苦八苦しながら論文を書く健二を応援しつつも、そのことを寂しく思っていたのは内緒だ。
 だから泣いている彼女をかわいそうだとは思うものの、少しほっとしたことは事実で。

「くや、しぃ……っ」
「うんうん。頑張ったもんね健二さん」
「がんばった! ぼくがんばったよ!!」
 泣きぼろめる彼女の背中をあやすように叩きながらぐしゃぐしゃの顔にキスをする。いつもならばこんな軽いキスでも頬を赤らめるのだが、今の健二には通用しないらしい。
「か、ずまくん……!」
 ぎゅううぅっと首に腕を回し抱きついてくる健二は肩に顔を埋めてさらに泣き声をあげた。
 あんまり泣くと明日の朝が大変だろうに、と心配する。けれども気が済むまで泣かせてやるのも優しさだろう。そう思い直して佳主馬は健二を抱えなおすとソファに体を埋めた。
「ふぇぇぇぇ……!」
「……また次があるよ、健二さんなら出来るから」
「……でき、る?」
「できる。健二さんならできる」
「……う、ん……」
 力強く頷き返すと健二は佳主馬の服をぎゅっと握り締めて黙り込む。

 “あんたならできる!”

 その言葉は、佳主馬にとっても健二にとっても魔法のような言葉で。
 耳元で何度も何度も囁き続けていると、暫くして小さな寝息が聞こえてきたことに気づいた。
 泣き疲れて眠ってしまったのだろう健二を抱きしめながら、佳主馬は唱えるようにもう一度繰り返す。


「……できるよ。健二さんなら、絶対にできる」
 できるだ、ろうけれど。
 ……できることならもう少し余裕が持てるようになってからがいいな。


 そんな自分本位の台詞を呟きながら最愛の恋人を抱きしめ、佳主馬は肩を竦めて微笑む。
 酔っ払いの相手をするならばこの人のほうがいい、と笑って額に軽く口付けた。







「おはよー」
「おはよう」
「彼女さん大丈夫だった?」
「うん。……あの後大丈夫だった?」
「まぁどうにか。あ、高坂さんには数人の男たちが『じゃあ是非俺と!』って迫ってたから大丈夫じゃないかな、たぶん」
「そう」
「いつか見せてくれる? 自慢の彼女さん」
「……いつか、ね」
「いつ?」
「…………とりあえずは」
「うん?」
「目蓋の腫れと、三日酔いが治ってから、かな」
「は?」

 その後、健二が暫くお酒を一滴も口にしなかったのはまた別のお話。



払いきれない憂いは僕が