まるで、天使のようだと思ったのだ。




『カズマ!』
『……メアリー?』
 リノリウムの床に靴音が反響して、高い天井へと吸い込まれるように消えていく。カツカツと近づいてくるハイヒールの音がやけに耳障りだった。
 響いた高い声に足を止めて振り向くと、そこにはここで出来た知人の一人が思いつめたような顔をして駆け寄ってきていた。
 豊かな金髪を揺らして近寄ってくる彼女の青灰色の瞳は、強い光を湛え真っ直ぐに自分を射抜いてくる。英国人らしい陶器のように白い肌がうっすらと朱に染まり紅潮しているのを見て目を瞠ってしまった。
 ……驚いた。彼女は「こんなこと」をしないと思っていたのに。
 少しだけがっかりしてしまうが所詮こんなものなのだろう。元より他人に期待などしていない。ただ、彼女は自分と似たような、言わば後腐れなく付き合っていけるタイプだと思っていたのに。
 少しばかり肩を落としつつ、そしてこれから何を言われるのか予想がついて、彼はほんの少しだけ唇を引き結んだ。
『……なにか用事?』
『あ、そ、その――――』
 知らぬフリをして問いかければ、口ごもって視線を逸らす彼女から見えぬようにため息をつく。
 本音を言えばこのまま帰ってしまいたいのだが、後々角が立つようなことはしたくない。今自分が身を置く世界は横のパイプが広く太く繋がっていて――その繋がりをひとつでも絶つことは、勿体無いからだ。
 どんな人間だろうと縁を断ち切るのは見定めてからだ。後々の自分の道に支障があるならば切るが、そうでない限りは残しておかないと使い道があるかもしれない。
 けれどもどうせ何を言われようと返す言葉は決まっているのだ。早く終わらせてくれないか、なんて考えていたところで――懐でブルブルと震えだした携帯にワァオ、だなんて声を上げそうになった。
『――――ちょっとごめん』
 天の助けとばかりに誰からかも確かめずに着信をとる。
 この状況を打破できるならば、暇な男友達からの馬鹿なナンパへの誘いでも食事でも何でもいい。馬鹿なことをやっているなとただ眺めているほうが、今よりは幾分かマシだろう。今日くらいは付き合ってやろうと電話に出て――まだ話を聞いておけば良かったと後悔する。
 それくらい、電話の相手は予想外の人物で。


《――――佳主馬?》


「!? っ……母さん?」
 ここ半年以上聞いていなかった声に嫌な予感を覚えたのは、一瞬。
《早く出てくれてよかったわ。元気そうじゃない。……さて近況とか前置きは省くけど――今すぐ帰国の支度をしてちょうだい。少なくとも明日か明後日には帰ってきてね》
 あっけらかんと紡がれた性急すぎる命令に、さしもの彼も唖然と目を見開いた。
「は……っ!? 明日か明後日!?」
《そう》
「幾ら何でも急すぎ……」
《急だけど仕方ないじゃない。一週間後には全ての準備を整えなくちゃいけないんだから》
「一週間後?」
 区切られた期間に予感を覚えた。今まで好きにさせておいた佳主馬への命令。急なそれが何を意味するのか解らないほど、佳主馬は馬鹿ではない。
《ええ。――あんたの「主人」が決まったのよ》
 有無を言わせぬ言葉に胡乱気な声を上げるも、ついで紡がれた単語にハッと息を詰めた。
 とうとう――決まったのか。
「ッ! …………了、解」
 深く息を吐き出すと、短く了承の言葉を伝えて二言三言話し通話を切る。
 待たせていた知人へくるりと振り返り、彼は殊更にこやかに微笑んでみせた。
『ごめん、仕事が入ったからこれから帰国しなくちゃいけないんだ。あんまり時間はとれないけれど、何の用事?』
『え……っ!』
 青灰色の瞳が見開かれ、そうして瞳の輝きが急速に色褪せる。まるで切れた電球のようなそれを哀れみはしても、惜しむことは無かった。
 無理に作った笑みを見ても、同じことだ。何も自分の胸には響かない。
『……大丈夫。大した用事じゃなかったから』
『そう? ならいいんだけど』
『うん。……随分急な帰国なのね。寂しくなるわ』
『俺も寂しいよ。日本に帰ったらレーガンの店のフィッシュ・アンド・チップスが恋しくなりそうだ』
『アハハ! ……そうしたら、またいつか食べにくればいいわよ』
『そうだね』
 軽口を叩きながらも彼女は解っている。きっとそんな日は来ない確立のほうが高いことを。むしろ、ここで二人の道は別たれて二度と巡り会う機会は無いだろうことを。
 仕方が無い、二人は"そういう"世界にいるのだから。
 そして何より片方にもう一度会い見える気が無ければ――これは永遠の別れになるのだと。
 それでも彼女が気持ちを打ち明けないのは、彼女自身のプライドであり選択だ。それについて彼が何かを言う必要は無く、また藪をつついて蛇を出すようなこともない。
『じゃあ……元気でね』
『うん。メアリーも、元気で』
 差し出された手を握り返し、そうして笑顔で手を振って踵を返す。後方からの未練を引きずった視線には気がついていたけれど、もちろん振り向くことなんて無かった。
 頭の中はこれから成すべきことで一杯だった。退学(厳密には入学していたわけでもないから退学でもないのだが)届けの提出、住んでいたアパートメントの契約解除、日本への荷物の郵送etc……やらなければいけないことは山積みで、それ以上のことに割く時間も頭も無い。ましてやたかだか数ヶ月過ごした人間への愛着もない。
 正直に言えば、それこそ贔屓にしていた店にもう通えなくなるのが一番残念だ。イギリスの食べ物屋の中では唯一美味しかった店だった。それに学ぶべきこともたくさんあったから、この学校を辞去するのも残念ではある。
 けれど本当に学ぶべきことはとうに学んでいるし、欲しかった知識も技術も全て修得した。ひとつひとつの出来栄えも完璧だと自負出来るし、同年代の人間でもここまでの水準をこなせる人間はそうそういないだろう。
 問題は――この技術を扱う《主》がどういう人物なのか、だけで。
 出来れば自分が持つ資格に見合った主を持ちたい、と思うのは不遜ではないはずだ。それだけのレヴェルを持っている自分が、この技術を惜しみなく使える人物。そんな人間だったらいい。
 けれども彼は知っていた。そんな人物は現れるわけがない。きっと今までもこれからも、本当に仕えたくなる《主》など現れないと――そう思っていた。



 ――――あの人に出会うまでは。



「久しぶり、佳主馬!」
『ただいま……』って、おっと。ただいま、母さん」
「あはは! BBC英語は完璧になっても、その代わりに母国語が疎かになってたりしないでしょうね?」
「そんなわけないでしょ? 何なら古文訳にでもしながら話そうか」
「冗談よ。とりあえず、詳しい話は家に帰ってからにしましょ」
 腕をとりながら共に空港を進む母親の顔は嬉しそうだ。
 年に数回は帰省していたとはいえ、今回は完全な帰国だ。この数年佳主馬は外国へ行ってばかりでほとんど日本にいることは無かった。これからは仕事があるとはいえずっと日本にいるのだ。それが嬉しいらしく弾むような声と笑顔に苦笑するしかない。
 もう二十を越えた息子がいるようには見えない若々しい容貌は健在で、むしろここ数年で若返ったようにさえ思える。
 いつまで経っても少女のような母親に肩を竦めて、佳主馬は待たされていた車へと乗り込んだ。
「さて、と……電話でも言った通り、あんたが仕える主人が決まったわ」
「データは?」
「これよ」
 後部座席に乗り込んで、運転手にGOサインを出すと車は滑らかに走り出す。早速とばかりに母親へ向き直ると、彼女は心得たようにUSBメモリを差し出してきた。それを受け取って起動させたモバイルへと刺す。
 フォルダを開くとそこには数枚の写真データ、そしてプロフィールが記載された書類データが十数枚。そのデータ量に眉を潜めながら名前を読み上げる。
「……小磯健二?」
「そう。アンタが行くのは小磯様の屋敷で――一人娘である健二様付きの執事よ」

 佳主馬の生家である池沢家――は、それなりの規模を持つごく普通の家柄の資産家であるが、母、聖美の生家は上流社会では有名な『陣内家』である。
 陣内家はそれこそ江戸やそれ以上昔から多数の優秀な人材を輩出してきた名家で、今でも経済界や政治界と太い繋がりを持つ。
 それは主に現当主である人物の恩恵が強いのだが、他家よりも格式が高いのは確かであるし、何より陣内家の《特徴》が評価されているということでもあった。
 陣内家の《特徴》。それは優秀な人材、および優秀な従者――執事を輩出していることにあった。
 『主』ではなく『従者』。仕え、従う者という立場を選択してきた彼らは皆、人に付き従うプロフェッショナルだった。日本でも最近一般へ少しずつ浸透しつつある『コンシェルジュ』とは違い、欧米でのバトラーがこれに当たる。
 とはいえ陣内家の皆が執事の資格を持つわけではない。現当主は執事の素質がある者にだけそのための教育を受けさせ、興味が無い者、素質が無い者には薦 めもしなかった。
 そして佳主馬は暫くぶりの『執事』候補であり、また自分自身もそれに依存はなく、欧米でのスクールや『仕事』をこなしながら三ツ星――俗に言うSランクのバトラーの資格を獲得していた。
 そんな彼に、今回当主から下った命が『小磯家の一人娘の執事』である。
「……栄様から初めて下される仕事がこれ、ね」
 感慨も薄く呟かれるそれに聖美の眉が寄った。
「おばあさまがあんたを高く評価してる証拠じゃない。今まで小磯様の執事を他の誰にも任せようとしなかったおばあさまが、あんたへ任せようって言うのよ? もう少し感激したらどうなの」
「って言ってもあそこの主人にはもう理一さんが付いてるし、俺は一人娘の執事だよ? そんな高い評価も何も無いと思うけど」
 確かに陣内でも能力の高い執事、またはその候補がどんなに挙手しようとも当主である栄は健二付きの執事を選ばなかったらしい。けれども資料を見れば健二はもう十五だ。傍付きの執事を付かせるには遅いくらいの年齢だった。だからこそ、この人選に何が絡んでいるのかが気になって仕方が無い。
「だからって……小磯様は古くから続く主家なのよ? 下手な人間には任せられない、陣内との繋がりが一番深い家――それを任せられるっていう意味、あんたなら解ってるはずでしょう?」
「解ってはいるんだけどさ。……どうも、納得しにくくて」
 聖美の呆れ混じりの言葉に眉を潜めながら、佳主馬はディスプレイを見やる。そこに映し出された画像データの中心には、当主である栄と、その腕に抱かれた嬰児の姿があった。

 華族の流れを汲むという由緒正しき家柄である小磯家には、代々陣内家の者が家臣として仕えていた。
 その流れは古く、現代日本でもその仕来りは続いている。とはいえ、昔ほど家臣や従者に重きを置かなくなった今では何十年かにほんの数名、または一名ほどが『仕事』として出向しているのみで、小磯家は小磯家、陣内家は陣内家で独自に発展を遂げている。
 しかし当主は違う。現当主である陣内栄は小磯家先先代当主のバトラーとして仕え、日本の執事界で語り継がれる幾つもの伝説や伝統を創った一人である。現役を退いて何十年と経った今でも、政界からの要望や相談に応え、また一度は傾きかけた陣内家を再興させた稀代の女傑でもあった。
 そんな彼女に認められ、さらには主家である家の付き人になれるなど名誉なことではあるが――その『名誉』こそが佳主馬にとっては無意味なものなのである。
 池沢家へ母が嫁いでも子である佳主馬が陣内の人間であることには変わりは無い。幼少の頃から栄に才能を見出されてから黙々と執事のための学習はこなして来たが、しかし、執事という職についての感慨は未だ抱けずにいたのだ。
 学ぶのは好きだ。技術を習得することも、その蓄えた技量を発揮することもやぶさかではない。
 けれどもそれらを『誰かのために使う』ということの意味を佳主馬は理解出来ずにいた。
 冷静な顔の下、好戦的な自分を佳主馬は自覚している。プライドがそれなりに高いことも負けることが嫌いで勝つことが好きなこと――だからこそどの技術も学習も完璧にし、最高峰と呼ばれる三ツ星レベルを獲得できたことも。
 だが、レベルは高くともそれが発揮できる場所は少ない。世界最高峰の執事といえども、それが発揮できる場所は所謂名家であり今となっては極めて少ない職場だ。東洋人である佳主馬を雇うのはやはり東洋人で、欧米に比べその数は圧倒的に少ない。
 それでも欧米のスクールに向上のため通っているうち、同じような他の同僚などのツテから上流階級の家へホストとして借り出されることはままあった。その度に名を知られ、技量の高さから感嘆を受け、幾つかの家への誘いもあったことはあったのだ。
 それでも首を振らなかったのは、そこが自分の求める場所ではないと知っていたからだろう。
 人に仕える仕事が嫌なわけではない。
 ただ、その喜びを知らないだけで。
 遣り甲斐の感じられない仕事を続けていても意味はないだろう。しかしこの仕事自体は面白いから辞めるという選択肢も持てずに今に至る。そんな佳主馬の心の裡を、栄は見抜いていたと思っていたのだが――――。
「…………正式に、認められるかの試験ってところかな」
「? 何か言った?」
「なんでもない」
 ただの執事としての技量は認められていても、佳主馬が『陣内家の人間』と認められていないことを知るのは栄か、今は小磯家当主の執事を務めるあの食えない叔父くらいなものだろう。中途半端な自分は佳主馬が一番良く解っている。そしてそれが努力や修学で埋まらないことを、栄は知っている。
 だからこそこの命令は何か大きな意味があるものなのだと――佳主馬は察せざるをえなかった。

* * *

 ぴんとした静謐の中、閉じられた障子の前に腰を降ろして静かに声をかけた。
「――――おばあさま、佳主馬です」
「お入り」
 気配で解っていたのだろう。直ぐに返ってきた応えの言葉に佳主馬は障子を開いた。
 背筋を伸ばし文机に向かっていた人物が振り返る。記憶のものよりまた少し老けたその姿は、しかし凛としていて美しい。
 変わらぬ当主であり曾祖母の姿に少し微笑んで、佳主馬は膝を進めると畳に軽く握った拳を置き、頭を下げた。
「当主の命により池沢佳主馬、ただいま参りました」
「ああ。……佳主馬、顔をお上げ」
 幾分柔らかくなった声音に伏せていた顔を上げると、面差しが優しくなった皺まみれの顔がこちらを向いていた。
「堅苦しい挨拶はそれくらいにしよう。――おかえり、佳主馬。元気にしていたかい?」
「……ただいま、おばあちゃん。おばあちゃんこそ元気にしてた?」
 『当主』ではなく曾祖母の顔になった栄に曾孫の顔で返せば、彼女は元気よくカカカと笑ってみせた。
「万作は無理するなと口酸っぱいけど、あたしはぴんぴんしとるよ。まぁ年寄りなのは確かだから、昔ほどの元気はないけどね」
「そんなぴんしゃんして元気がない、なんてよく言うよ」
 軽口を叩きながら、示された座布団へ腰を降ろした。暫くして万里子が茶を運んできて、障子が閉められたところで栄が文机の上から何かを手に取った。
「久しぶりにやろうじゃないかい?」
 黒い箱に収められた、鮮やかな色彩の小さな札。
 幼い頃はよく見たそれに、佳主馬は口の端を吊り上げる。
「手加減しないよ」
「アハハハ! 私が、まだまだあんたに負けるわけないだろう?」
 笑いながら、しかし挑発めいて聞こえるそれに背筋が伸びる。本気でいかなくては無様なところを見せるだけだ。この人を老人と侮るわけにはいかない。
 台詞とは裏腹に軽く身構える佳主馬を笑みを湛えた目で見つめ、栄は碁盤の上に札を配りだした。


「……まぁ、予想はついてたけど」
「まだまだひょっこに負ける気はしないね」
 自信たっぷりに言い切った彼女の言葉に佳主馬は参りました、と頭を下げた。途中までは佳主馬がリードしていたものの、最後の最後で切り崩された。
 一抹の悔しさが滲むものの、予想通りの結果に札を片付け時計を見上げる。
 そうして、そろそろか――と気を引き締めたところでかかった声に、佳主馬は姿勢を正して栄と向き合った。
「佳主馬」
「……はい」
「実はね、今回健二様の執事にあんたを推薦したのは……理一なんだよ」
「……え?」
 身構えていたところに予想外の人物の名を挙げられ、佳主馬は目を瞠った。栄は難しい顔で佳主馬を見やり、軽く息を吐く。
「理一が今、小磯様の執事であることはあんたも知っているだろう?」
「はい」
「小磯家は、あんたも知っている通りこの日本でも有数の資産家だ。グループの名は世界にも届き、政界にもパイプを持っている。そして、その一人娘である以上、健二様には優秀な執事が付くのが望ましい。……身の回りの世話も、そしてその身体をお守りできる者がね」
 力を持つ、ということは敵が多くなるのと同義だ。
 理一もまた、執事という役職と同等かそれ以上に卓越した身体能力と体術、技術――ボディガードとしての技量を変われ雇われた。
 つまり、それと同じことを佳主馬にも求められている、ということだ。それは車内で資料を見た時から解っていたことだから、今更身の危険について含まされても変わりは無い。ただ、それと理一にどんな関係があるのかと佳主馬は不可解そうに眉を寄せる。そんな佳主馬を見やり、栄は深いため息をついた。
「……正直に言えばね、佳主馬。あたしはあんたがこの仕事を務められると思っていないんだよ」
「!」
 やっぱり――と花札で負けた時とは比にならないほどの悔しさに佳主馬の瞳が燃え上がった。
「……今、俺がトリプルの資格を持っていても?」
「トリプルだろうがシングルだろうが、いっそ星なしだろうが関係ない。あんたは執事として、従者として大切なものが欠けている。……もしくは人として、ね。自分でも良く解っているだろう?」
「………………」
 解っている。だからこそ、佳主馬は理一が推薦したと聞いて驚いたのだから。栄と同じくらい、佳主馬の欠けている部分に気が付いていたはずの叔父が何故、自分を推薦したのかが不可解すぎた。
「……あの方は、とてもさびしい方なんだ」
 あの方、が誰か解らないが佳主馬は口を挟まなかった。色鮮やかな札が黒い箱に収まっていく。その中でぽつりぽつりと、栄が零した。
「優しい方なんだよ。気弱で、おどおどとしているように見えるが、ああ見えて芯は強い方だ。だからこそ泣き言も漏らさずに、ただじっと耐えていらっしゃる。まだまだ甘えたい年だった頃も、何も言わずに小磯様を見送っていたあの方が可哀想でねぇ……今でも屋敷に一人で住んでいることを聞くと、あたしは何だか罪悪感すら沸いてくるような気がするんだよ」
 ――――ああこれはきっと『小磯健二』のことだ。


* * *


「……ここ、か」  タクシーを降りて目の前に聳え立つ洋館を見やり、佳主馬はボストンバッグを持って洋館へと足を進めた。
「お待ちください」
 門の横には警備員がいた。声をかけられ、無言で身分証と正式な書類を見せると直ぐに中へと案内される。
 英国風のガーデンを通り抜け、現れた白亜の洋館は美しかったが――どこか物寂しい印象を受けるのはどうしてだろうか。
「池沢様でいらっしゃいますね?」
 玄関まで向かえば、品のいいスーツを着た四十代半ばと思える女性が待っていた。それに頷き、軽く頭を下げる。
「はい。本日から小磯健二様付きの執事となります池沢佳主馬です。よろしくお願い致します」
「こちらこそよろしくお願いします。私は梶浦あやめ、小磯家メイド長を勤めている者です。何か解らないことが御座いましたらお聞きください」
 キビキビとした態度はいかにもお局という印象を抱かせた。口煩いものは早々に封じてしまったほうがいい。そのうちにどう騙くらかすか算段を立てつつ、柔らかな笑みを向けた。
「随分お若く見えるのに、メイド長を務めていらっしゃるとは優秀な方なのですね。私はまだまだ若輩者で至らぬこともあるかと思いますが、どうぞご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い致します」
「! ……とりあえず、早速ですが健二様へお通しいたします。こちらへどうぞ」
 一瞬朱に染められた頬に、ちょろいなと心の中でほくそ笑む。同時にこの家も楽しめそうにないな、とそっとため息をついた。
 きっと、このまま現れない。自分が心の底から仕えたいと――守りたいと思う人物なんて。
 廊下を行く度、すれ違うメイドの視線が自分に向けられ、そのどれもが甘い熱を孕んだものであることに苛立たしさを感じながら、佳主馬は梶浦の後を付いていく。
 栄の危惧が現実のものになりそうだと、そんな予感を感じながら。


「こちらで暫くお待ちください」
 そう言われてからどれだけの時間が経っただろうか。三十分や一時間では利かない。高みにあった太陽も徐々に翳り始めても、まだ面会すべき人物は現れない。
 …………いい加減限界だ。
 さすがに迎えに行くくらい許されるだろう、と待たされている間に頭に叩き込んだ地図を思い出しながら佳主馬は応接室を出た。
 ここから一番近いルートを通っていると、メイドたちが数人ぎょっとしたように佳主馬のほうへ近寄ってくる。
「い、池沢さま!? 申し訳ございませんが、お部屋でお待ち頂けないでしょうか。まだ池沢様はお客様の御身分ですので……」
「いえ、どうもお忙しいようですので自分から挨拶に向かったほうがいいのではと思いまして。業務にも早く慣れたいですし、ご挨拶さえしましたら私も仕事に入らせて頂きますから」
 メイドたちの遠まわしな制止をやんわりと潜り抜け、佳主馬は健二の部屋へと向かう。そうしていやに静かな廊下を通り、彼女の部屋へと辿り着いて――身繕いすると軽くノックをした。
「健二様。本日より参りました池沢佳主馬で御座います。ご挨拶をさせて頂きたいのですがよろしいでしょうか?」
 中に声をかけ、暫く待つ。
 ……しかし、一向に声が返ってくることは、ない。
 そのことに首を傾げ、もう一度同じことを繰り返しても反応はまったく無かった。
「……まさか寝てるのか?」
 時間厳守も出来ないわがままお嬢様――そんな想像が頭に浮かんだ。書類からはそんな印象を受けなかったのだが。しかも栄が好む人物がそんな人間であるわけがない。
 そう考え数分待ち、しかしまったく応えが返らないことにまさか、と嫌な予感が佳主馬の脳裏を過ぎる。
「…………倒れてたりするんじゃないだろうな?」
 それならあり得る。確か書類にも、風邪などを引きやすいと明記してあったはずだ。もしそうだったら大変だ、と佳主馬は暫し迷いノブに手をかける。
「健二様、入りますよ?」
 そうしてゆっくりと扉を押し開き――視界に翻った白に目を瞬いた。



 ――――一面真っ白な、部屋。
 陽の光がカーテンから射し込み、部屋を照らす。白に覆い尽くされた部屋の中央に、蹲る影が見えた。
 そこから溢れ出す、白いものがまた部屋へと翻る。
 ひらひらと舞い上がるものは、まるで羽だ。
 息を飲んで立ち尽くす佳主馬の足に、カサリと翻った白が被さった。屈んで手にとると、それはびっしりと数字が羅列されたレポート用紙。
「……計算式……?」
 思わず呟いたその一言が小さな音の響いていた部屋に、いやに大きく落ちた。
 その瞬間、カリカリカリと響いていた音がピタリと止まる。少しの静寂の後、蹲っていた影がそっと身を起こしふわりと波打った茶色が揺れた。
「……………………だれ?」
 微かな、吐息にも似た声が佳主馬の耳に届く。
 中央に起き上がった影――――少女が、真っ直ぐに自分を見つめる。ひらり、と彼女が身じろぐと舞い上がる紙。
 視線が交差し、茫洋とした瞳が揺れる。
 その瞳を見つめ――どうしてか、佳主馬はその少女が人ではないものに見えた。

 それはまるで――――天使のような。



"その時はまだ、楽園へ続く階段を踏み出したと気付かずに"