わたしのたからもの

 名前というものは自分を表す最たるものだ。
 名前が無ければ自己を確立するのは難しい。名があって初めて無から有になり、そして個となる。それは全ての万物にいえることであり、名が存在し得ないものは得てしてどこか曖昧で不確かなものばかりだ。名をつけることで“それ”は初めて世界に存在し得ることになるのだろう。また、名をつけるという行為もまた重要だ。名付け親というものが世では重視され、新しい発見においての名づけは所有を意味するとも言われる。
 ――――要するに、名前というのはとても大切なものなのである。
 とくにそれが、人間の名前であると酷く重大だ。


「……だっていうのにどうして僕が……」
 ぺらぺらと積み上げられた本を捲りながら億劫そうにため息をつくと、それを聞きとめて同じように本を開いていた健二が苦笑を浮かべた。
「聖美さんたちも色々考えがあるんじゃないかなぁ」
「普通こういうのは親が決めない? もしくは師匠とか」
「万助さんが名前考えるの?」
「…………ごめん訂正する。やっぱり親」
 万助が何というわけではないが、やはり何となく名前付けは似合わない気がする。かといって何故それが自分に回ってきたのかという点については、理解に苦しむのだが。
「せっかくだから、お兄ちゃんにも考えてほしいってことなんじゃない?」
 へら、と笑みを浮かべながら言う健二を軽く睨めつけて佳主馬はため息をつく。何だかんだいってお気に入りである健二と一緒にいられるのだから、まぁいいのだが。
 片付けられた広間には今、健二と佳主馬しかいない。机の上に姓名判断だとか赤ちゃんの名づけ方やらと書かれた本が数冊積み上げられ、その横には念のために開かれたパソコンがある。
 今朝、両親から告げられた「生まれてくる妹の名前を考えて欲しい」という言葉は佳主馬を固まらせるに十分な威力を持っていた。
「でも、聖美さんだって何も佳主馬くんの考えた名前をそのまま使おうとか、そういうわけじゃないんだし……」
「そんなことは解ってるけど。……まだ生まれてもないのに考えろって言われても」
 正直に言えば『妹』という存在を肌で感じ取ったのはあの時――ラブマシーンの強さに絶望した時だ。あの時まで意識外に置いていた小さな命を、家族を守りたいという願いが佳主馬を圧倒した。
 その時まではまだ自分が兄になるという実感が沸いていなかったが、あの瞬間にやっと自覚したのだと思う。そう、まだ実感して数日しか経っていない。だというのに名前を考えろと言われてもさっぱりに決まっている。
 せっかくお気に入りの人が傍にいるのだから、こんなことをせずにもっと話がしたい――と考えながら隣を見やり、佳主馬は目を瞬かせた。
「……どうしたの」
「え?」
「なんか、嬉しそうだよ?」
「あ……うん、」
 あはは、と照れくさげに笑う健二は何故か嬉しそうな、楽しそうな顔をしていた。佳主馬の手伝い、といっても当の本人にやる気がないのに彼はどうやら熱心に考えていたらしい。何が楽しいのだろうかと佳主馬は首を傾げた。
「名前考えるのが楽しいの」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……なんかいいなぁって」
「いい?」
「うん。兄妹とか、名前を考えるのっていいなって。一人っ子の僕には羨ましいと思うし、佳主馬くんの妹と聖美さんが問題なくて良かったなぁって」
 ――――健二の言葉にハッとする。
 確かにあらわし墜落直後、妊婦である聖美の体を考えて一度近くの病院に検査に行った。何かあったら母子共に危ないということで佳主馬もそれに付き添ったのだが、経過に問題は全くなかったらしく、それだけで生まれてくる妹が大物になるであろうことは予測できた。
 あんなに大騒ぎだったのに母子どちらにも全く問題ないだなんて。母も母だが妹も妹だ。さすが陣内家の女性は皆強い。

 しかしその全てを守ったのが自分だということに、目の前の人は気がついているのだろうか。

 ……気がついていないんだろうな、と苦笑した。
「……羨ましい?」
「うん。僕も兄弟が欲しかったなぁって思うよ。兄でも姉でも弟でも妹でも」
 そう言う健二の顔に陰りは見えなくて、だからこそ佳主馬にはそれが寂しく見える。もっと寂しそうに言ってくれれば言える言葉はあるのに、彼はそんな言葉を言わせてもくれない。
 それを歯がゆく思いつつ、佳主馬は広げていた本を閉じると開いていたパソコンを引き寄せた。
「……一文字は僕と同じ」
「え?」
「みんなの名前考えると解るだろうけど、うちの兄弟関係はみんな名前の一文字が一緒なんだ」
「一緒? えっと、万作さん万助さん万里子さん……頼彦さん邦彦さん克彦さん……あ」
「ね」
 だから難しいんだよ、と佳主馬はため息をついた。
「僕の名前と揃いにするなら、佳か主か馬。……女の名前に馬ってどうなのかな」
「……有りだとは思うよ?」
 健二の苦笑に肩を竦める。女性でも馬を名前に持つ人はもちろんいるが、ピンとくるような名前を思いつけない。齢十三の佳主馬にそうそう人名など思いつけるはずないのだ。
 けれどもこれを任された時に、佳主馬はただひとつだけ決めていたことがあった。
「……誰からも呼んでもらえるような名前」
「?」
 ぽつりと呟いた佳主馬の声に健二が不思議そうに首を傾げた。モニターの中で白い兎の相棒がじっとこちらを見つめてくる。……少しだけ、苦い気持ちになった。
「誰からも好かれて、っていうのは無理だろうけど」
 それでも願わずにはいられない。
「たくさんの人から名前を呼ばれて、一人になるようなことが無いような、名前がいい」
 自分のように、いじめられることなんて無いような名前。皆から愛されて孤独になることもなくて、幸せになれるような、そんな名前がいい。
 たくさんの人から呼ばれるような、そんな名前が。
 言葉にはしない佳主馬の気持ちを察したのか、健二は一瞬息を詰めるも直ぐに淡い笑みを浮かべた。彼は何も言わずにそっと佳主馬の頭に触れて、優しく慈しむように撫でてくる。
 子供扱いされている――――普段は嫌がるそれが、どうしてか今はすんなりと受け入れられた。
「そっか。じゃあいい名前考えなきゃだね。漢字辞典とか開いてみようか?」
「……うん」
 広間を通り抜ける風が、どこか優しかった。



「佳かかかかかか……馬まままま……」
「……弟だったら楽だったのに」
「あはは、」
 弟ならば馬でもよかったのだが、と思いながらページを捲る。頭の隅に曾祖母の名前も浮かんだが、それぐらいは両親も考えているだろう。それでは佳主馬の考える――ひいては健二に手伝ってもらう意味が無い。
 辞典を放り出してネットの海にアクセスし漢字の意味を探る。
 たくさん呼んでもらえるような。呼びかけてもらえるような。
 漢字の意味だけ合っていても駄目なのだ。響きも良くなければいけない。
 カチカチ、とクリックする音。ぱらぱらと紙を捲る音が広間には暫く響き――――そうして「あっ!」と突然健二が声を上げた。
「なに?」
「かなんちゃんってどうかな!?」
「……かなん?」
 加奈と似ているが、響きはなんとなく良い気がする。かは佳だろうが、なんはどんな漢字なのだろうかと首を傾げると健二は興奮した様子で目を輝かせた。
「かはもちろん佳主馬くんの佳なんだけど、なんっていうのはこんな感じなんだ」
 辞典が机に広げられ、健二の細い指先が一点を指差す。

『喃』

「……へぇ、」
 漢字で佳喃。
「悪くないね」
「だよね。で、意味もさ」

『人に呼びかけるとき、また同意を求めるときに発する語。もし。』

「ただ喃喃っていう意味だと、くどくどと喋り続けるっていう意味になっちゃうらしいんだけど……」
「いや、いいと思うよ。これ」
 呼びかける時に発する言葉。それは佳主馬が考えていた意味と符号する。
 さらに“佳”を使うとするならば。
「……良く、美しく呼びかけられる、か」
「え?」
「佳の意味は知ってる?」
 佳主馬の呟きに首を傾げた健二へ、辞典を開いて項目を指差す。それを読んだ健二の目がふわりと優しく細まった。
「……よいこと。すぐれていること。美しいこと、か。佳主馬くんにぴったりの漢字なんだね」
「え?」
「だって佳主馬くんはいい子だしキングだし凄いし、とっても綺麗だから。名前ぴったりだね! ……うーん、女の子だしやっぱり使うんだったら佳かな?」

 ――――びっくりした。
 不意打ちは止めて欲しい。心臓が止まる。
 メモ用紙に佳喃、と書いてまた辞典を開く健二から顔を逸らし、佳主馬は熱を持ち始めた頬を隠すように掌で覆う。
 顔が熱い。いい子なんて子供扱いもいいところだし、凄いといわれても普段なら「何が?」と返すところだ。綺麗、だなんて中学生の男に言う言葉じゃない。
 けれど。
 彼が紡ぐ言葉は真っ直ぐに佳主馬の心に響くから。
「……健二さん」
「なに? 佳主馬くん」
「……ううん、なんでもない」
 佳主馬くん、と紡がれる自分の名前がまるで宝物のようだと思う。両親から呼ばれる時とも祖父から呼ばれる時とも、誰とも違うその響き。胸が熱くなってどきどきして、彼が自分を見ているという証のようで嬉しくなる。
 ――――生まれてくる妹も、いつかこんな想いを持つことが出来るように。
 たくさんの人から、罵倒でもなく侮蔑でもなく、良く、美しく呼ばれるように。
 『佳喃』と書かれたメモ用紙を手に取って、佳主馬はふわりと笑った。



*****



「……っていうわけで、佳喃の名前はお兄ちゃんと健二くんがそうやって付けてくれたのよ」
「へぇ……私の名前ってそういう意味なんだ」
「どう? 宿題できそう?」
「バッチリ!」
 ぐっと右手で拳を握りしめ佳喃はニッと笑みを浮かべた。手元のルーズリーフに書きとめた内容を読み返し書き漏らしがないか確認する。これをまた作文用紙に書かなくてはいけないのだけれど、とりあえずは纏められただろう。
 一安心とばかりにファイルを閉じると、佳喃はダイニングテーブルに頬杖をつきそっとため息をついた。
「でもそっか、健二さんが漢字考えてくれたんだ……」
「初恋の人が名付け親、だなんて上手くできてるもんだわねぇ」
「お母さん! そんな終わったみたいに言わないでよ、まだ私は諦めてないもん!」
 夕食の支度をしながらカラカラと笑う母に佳喃はいきり立って抗議した。
 初恋が実らないだなんて迷信にしてやる、と数年前から佳喃は誓いを立てている。大体兄だって初恋だったらしいじゃないか。ならば自分の恋が実って兄の恋が実らない、という可能性だった捨てきれないだろう。
 そう憤慨する佳喃に、振り向いた聖美は呆れたように肩を竦めた。
「なーに言ってんの。佳主馬と健二くんに割ってはいるなんて、あんたなんか一分の隙もありゃしないじゃない」
「まだまだこれからなの! 健二さんだって私がもっと大きくなれば枯れかけた男よりも若くてピチピチの女の子のほうがいいはずだもん!」

「――――誰が、枯れかけた男だって?」

 その時耳朶を打った低い声に佳喃の体がびくりと震える。
 聞き間違えるわけもない家族の、それも機嫌の宜しくない声音にぎょっとして振り向けば、廊下の扉から長身の影がこちらを見やっていた。
「げっ! お兄ちゃん!」
「帰ってきた兄に向かって『げ』はないんじゃないの、佳喃」
「お、お帰りなさいお兄ちゃん……」
 あはは、と佳喃は急いで取り繕うように笑みを浮かべた。しかしそれも直ぐに満面の笑みへと変わる。
「……お、お邪魔しまーす……」
 眉根を寄せてため息をつく佳主馬の後ろから、ひょこりと小柄な姿が現れると佳喃の顔がパッと一瞬で輝いた。
 正反対に佳主馬の表情は急降下していき、気付いた聖美がキッチンから顔を出す。
「あら健二くん、いらっしゃい! 疲れたでしょ、お茶出すから座って座って!」
「ありがとうございます」
 はにかんだように笑う、その笑顔に胸をときめかせながら、佳喃はテーブルから急いで立ち上がると佳主馬の腕を掻い潜り健二の腕へと飛びついた。
「健二さんこっち! 私の隣!」
 相変わらず細い腕に腕を絡ませソファへと引っ張る。そのまま隣へと座らせようとするも、荷物を降ろした佳主馬にそれは阻止された。
「健二さんは俺の隣」
 そう言った佳主馬はさっさと二人がけのソファに腰を降ろすと、健二の腕を引っ張り隣に座らせた。邪魔する暇も無かったそれに佳喃の頬が膨れる。
「お兄ちゃんズルイ!」
「ずるくないでしょ、俺のなんだから」
「ははは……」
「まったく、あんたたちは……いい加減にしたらどうなの?」
「まだ負けてないもん!」
「もう負けてるよ」
「なんか前にもあったよね、こんなやり取り」
 懐かしいなぁ、と言いながら聖美が運んできたカップを受け取り健二はお礼を言う。池沢兄妹のこのやり取りは既に十年近いため、聖美も健二も頓着した様子無く近況を話し合った。
「布団はいつも通り佳主馬の部屋だからね」
「ご厄介になります。あ、これお土産です」
「あらありがとう。……あれ、これ前に私が言った……もしかしてわざわざ買ってきてくれたの!?」
「わざわざだなんて、たまたま近くに行く用事があったんで思い出しただけなんですけど」
「ありがとうー! 前から食べてみたかったのよねぇ」
「………………」
「……お兄ちゃん、嫁と姑みたいだなって考えてない」
「間違って無いでしょ」
「そのうちお兄ちゃんが小舅になるんだからね! 私と健二さんの夫婦生活を邪魔したりしないでよ!?」
「誰と誰が夫婦だっての」
 和やかな会話の傍でバチバチと火花が散る。いつもとはいえ飽きないのかしら、と聖美は呆れたように二人を眺め健二は苦笑した。
「……枯れかけたっていうなら、僕のほうが佳主馬くんより四つも年上なんだけどなぁ」
 その言葉には三方向からツッコミが入る。
「大丈夫健二さんならまだ学生で通るよ!」
「初めて会った時からほとんど変わらないわよ?」
「むしろ年々幼くなってるような気がするし」
「え、えっと……」
 佳喃ははしゃいだ声音で詰め寄り、聖美からは引きつった(ある意味羨望の)笑みを向けられ、佳主馬からは奇異のものを見るような視線で見られ健二は乾いた笑いを浮かべた。……自覚はしている。している、がそこまでだろうか。そんな変わらないのだろうか。これでも三十路なのだけれど。
 私と歩いたらカップルに十分見えるよ! と佳喃が健二にくっつくのを佳主馬が腕でガードする。途端に剣呑な視線がこちらへ向けられるのに、佳主馬は呆れたように妹を軽くねめつけた。
「我が妹ながら、諦め悪いね……」
「諦めが悪いのは陣内の女の特徴でしょ」
「お前と健二さんじゃカップルどころか兄妹にしか見えないから」
「何よお兄ちゃんだって私と同じ年の時はそうだったんでしょ! そ、れ、にお兄ちゃんが十三の時より私のほうが背が高いんだよ! 身体測定で三センチも!」
「今は俺のほうが三センチどころじゃなく高いし」
「ほらほらあんたたち、健二くん困らせないの!」
 だんだんと低レベルな言い争いに発展していきそうな会話に聖美がパンパンと手を叩く。仲が悪いわけじゃない、むしろ兄妹仲は至って良好なのだが健二のことに関してだけは双方譲ろうとしない。
 そんな二人の口論を聞きながら、健二はぽりぽりと困ったように頬を掻いた。
「僕、もう三十なんだけどなぁ……」
「まったく変わってないけどね」
「う……」
「物心ついた時から変わってないけどね」
「佳喃ちゃんまで!」
 先ほどと同じような問答を繰り返しながら騒ぐ三人に、聖美は笑いながらその場を離れる。夕食の支度に戻った聖美に気付いた佳喃は手伝いのためにソファから立ち上がり――ふと気付いたようにテーブルを見た。
「あ、そうだ」
「ん?」
「健二さん、私の名前呼んで?」
「え?」
 にっこりと微笑みされたおねだりに、健二は目を瞬かせつつも彼女の名前を呼ぶ。

「佳喃ちゃん」

「…………うん、ありがとう。」
 私と私の家族を守ってくれて、名付け親で、お兄ちゃんの恋人で――――大好きな人。
 この名前は彼から貰った一番最初の宝物だ。
「ありがとね、お兄ちゃん」
「え?」
「私、佳喃って名前で幸せだよ。良く可愛い名前だねって褒められるし、私もそう思ってる。姓名判断だってほとんどいいことばっかりだし、たくさんの人から呼んでもらってる」
 兄と、健二が願ったように自分は今とても幸せだ。一度だって名前を恥じたことは無いけれど、母から聞いた由来にいっそう愛しさが増す。
 大好きなひとたちがつけてくれた名前なのだから、当然だ。

「池沢佳喃の名前は、私のこの世で一番の宝物です」
 ありがとうお兄ちゃん、健二さん!

 軽く礼をして笑えば健二がくしゃりと泣きそうになりながらも破顔して、佳主馬はふわりと目を細めて微笑んだ。
「……佳喃」
「ん?」
「……何でもない」
「へんなの」
 作文のタイトル案はひとつしかない。クラス中に自慢するぐらいの気持ちで佳喃は宿題の作文を書き、それが見事作文コンテストで最優秀賞をとるのはこの半年後のことである。


『私のたからもの 一年五組 池沢佳喃』



無くなることのない幸せを、(ありがとう)