都会とは違い虫の鳴き声と風の通る音が優しく響く。
 そんな静かなオーケストラも聞こえぬほどに食卓は大盛り上がりだった。
「あーあー、ありゃ明日残るんじゃないの」
「仕方ないわよ。今日はもう飲ませちゃいましょ」
「すみません、僕のせいですよね……」
「そう思うなら、来年はちゃーんと出席してちょうだいね?」
「はい……」
 万里子の言葉に苦笑する健二は、すっかり主役を忘れた宴会を見て目を細めた。
 それは、まるでその光景を目に焼き付けようとするかのようだった。柔らかな笑みを浮かべる彼に夏希も万里子も万助も侘助も、他の誰も気がつかない。
 たったひとり、佳主馬を除いては。
「――健二さん」
「っ、佳主馬くん?」
「ちょっといい?」
 くい、と指で指し示した方向にある場所を思い浮かべて健二が一瞬躊躇うような表情を浮かべる。それを見逃さずに、佳主馬は健二の腕をとった。
「うぇっ!?」
「ほら、行くよ」
「ちょ、ちょ佳主馬くんっ!?」
 慌てる健二の腕を有無を言わさず引っ張り、佳主馬は宴会場から健二を連れ出す。廊下をずんずんと進んで、健二と初めて出会った場所――納戸へと彼を連れ込んだ。
「……久しぶりだなぁ、ここも」
 名残惜しくも腕を離すと、健二は納戸の中央でぐるりと見渡すように回った。ふふ、とその顔に笑みが浮かぶ。
「去年は佳主馬くんが来る前に帰っちゃったから来なかったんだよね、なんだか懐かしい感じがするよ」
「明日、何時に帰るの」
「え……お昼前かな。まだチケットとってないから解らないけどそのくらい……」
「どうして避けてたの?」
「え、」
「俺のこと、ずっと避けてたでしょ」
 佳主馬の静かな問いかけに、振り返った健二が目を見開いて、そして視線が逸らされた。
「……避けてなんてないよ?」
「メールも返してくれないし、チャットだって断られてばっかりだった」
「ごめんね、忙しかったから」
「健二さん」
「……なに?」
「どうして、目合わせようとしないの」

 ――――健二の顔に浮かんでいた笑みが、消えた。

「っ、」
 バンッ! と引き戸が派手な音をたてて閉まる。
 大きな音が響くも、盛り上がっている広間までは聞こえないだろう。
 逃げようとした細い体を腕の中に閉じ込めて、佳主馬は誰にも聞こえていないことを祈った。
「…………か、ず、まくん……?」
 呆けたような健二の声が腕の中から聞こえてくる。
 抱きしめた体はやっぱり細くて小さくて、今の佳主馬の体ではすっぽりと包み込んでしまう。
 暫しして状況を把握した健二がもがくも、佳主馬はそれを許さないとばかりに腕に力をこめた。
「佳主馬くん、離して……!」
「嫌だ」
「佳主馬くん!」
「どうして逃げるの」
「それは……!」
「答えて健二さん。――どうして、俺から逃げようとするの」
 沈黙が落ちる。
 腕の中、震えるように身を強張らせる健二がかわいそうだと思っても離そうとはしなかった。離すことはできなかった。
「ねぇ、どうして」
「……なに言ってるか、解らないよ佳主馬くん」
 だから、離して?
 細い声で紡がれる言葉はあまりにも弱々しく、言葉とは裏腹に力が無かった。
 あんなに諦めようとしなかった人が、強い人がここまで弱っている。それがもし佳主馬のせいだというのならば甘んじて受け入れよう。
 けれども、その理由も何もかもが解らないままでは納得できようもない。
 卑怯だとは解っていても、優しい健二に対する手段はこれしか思いつけず、佳主馬はそっと健二の耳に唇を寄せた。
「…………俺は、寂しかったよ」
「っ、!」
「寂しかった。メールも電話も、チャットもなにも出来なくて。返事もあまり返ってこなくて避けられて、すごく寂しかった」
 かなしかったよ。
 囁くように言葉を紡げば、腕の中の健二がゆっくりと体の力を抜き、ついでかくん、とその膝が落ちたのに慌てて佳主馬は彼を抱きとめる。
 そのまま板張りの床に腰を降ろすと、しゃがみこんだ健二を再び腕の中に閉じ込めた。
「……なんで、」
「え?」
「なんで、そんなこと……」
 小さな声が密やかに空気を震わせる。声に混じる色は悲しみか苦しみか、それとも。
「なんっで、どうして……っ!」

「――――好きだから」

「……え」
「健二さんのことが、好きだから」
 俯いていた頭が持ち上がり、僅かに潤む瞳が佳主馬を見つめる。見開かれた目は零れ落ちそうで、健二は呆然として唇を震わせた。
「……す、き?」
「好きだよ。ただの好意じゃない。恋愛感情っていう意味で、俺はあなたが、健二さんが好きなんだ」
 ずっと、恋をしていた。
 二年前のあの夏から、あなただけを想っている。
 ――――ここからが佳主馬の本当の戦いだった。
「……だめ、だ、よ」
 くしゃりと健二の顔が歪んで、力なく首を振る。
 告白の返事としては不適当なその言葉に佳主馬は眉を潜めた。
「だめって、なに」
「だめだよ、佳主馬くんは……佳主馬くんが、キング・カズマが僕なんかにかまってちゃ」
「なにが関係あるの。キング・カズマは確かに僕だけどそんなこと今は関係ない」
「だって……僕は、僕にはもう、」
 ここしか残ってないのに――――
「…………健二さん?」
 俯く頭を見下ろしながら、佳主馬はようやく健二の様子がおかしいことに気がついた。
「健二さん」
「だめだよ、僕にはもう、ここしかないんだ。僕の繋がりは、もう……!」
「……なにがあったの」
「……なにも無いよ」
「健二さん!」
「何も無くなったんだ!」
 悲鳴のように上がった声に佳主馬は震える健二を見つめる。自分を守るように体に腕を回して、健二は泣きそうな顔で笑っていた。
「無くなった……?」
「いつか無くなるなら、いつか切れるなら最初から結びたくない。本当は切れて欲しくなんか無かったのに、僕はなにも出来なかった……!」
 健二は泣いていない。
 瞳は潤んでいつつも、そこから雫が零れ落ちるようなことはなかった。
 それは彼に残された矜持なのだろうか。
「……僕の繋がりは、みんな切れちゃうんだ」
 壊れそうな笑顔は、楔か。
「お父さんと、お母さんみたいに」
 ――――その言葉で全てを悟った。
「……健二さん」
「……今は、どっちに着いて行くか決めなさいって言われてるんだ。あ、そうだ僕ね、春から一人暮らし始めたんだよ。あのマンションには誰も帰ってこないから一人じゃ勿体無いもの。だから、どっちかについていくって言っても一緒に住んでないから二人の邪魔はしないし――」
「健二さん!」
「佳主馬くん、僕ね」

 一人になっちゃったみたい。

 そう言って健二は、佳主馬が好きだと感じたはずの優しい笑みを浮かべた。
 痛々しさの、滲む瞳で。
「だからね、僕の大切な繋がりはもうここの……陣内のお家だけなんだよ」
 大切そうに居間のある方角をぼんやりと見つめ、健二は笑う。仮面のような笑顔で笑う。
「僕はここの人たちが、みんなが大好きだよ。ここにくるとあったかくなって嬉しくなる。でも、だから僕はここにいちゃいけないんだ」
「どうして!」
「僕、夏希先輩のこと、好きじゃなかったんだ」
「…………え?」
 唐突に返された言葉に佳主馬は目を丸くした。
「夏希先輩のことは好きだけど、それは憧れとか尊敬とか……もっと違う感じで。だから、夏希先輩とは付き合えなくて、でもそうすると栄おばあさんとの約束を破ることになる、から……」
 約束。それは確か、栄が死ぬ前の夜に栄と健二が交わしたものだと聞いたことがある。
『夏希をよろしく頼むよ』
「陣内家に半端な男は、いらないんだものね」
 笑う健二の言葉は哀しく納戸に響く。けれども、佳主馬には解らないことがまだ一つあった。
「……健二さん、夏希姉ちゃんとのことは解ったよ。でも、それならなんで夏希姉ちゃんじゃなくて」

 ――――俺を避けてたの?

「っ、」
 その瞬間、健二の付けていた笑みが砕けた。
「答えて健二さん。どうして俺を避けてたの」
 最初の問いに戻る。佳主馬はだんだんと何かが解りかけていた。
 健二がどうして佳主馬を避けていたのか。
 夏希とどうして付き合わなかったのか。栄との約束で悩みながらもここに来た理由。
 佳主馬の腕から、必死になって逃げない理由。
 もしそれが真実なら。
「……たたかい、は、」
「え?」
「始まらなきゃ、終わりもない、から」
 か細い声で健二が呟く。
 その言葉はこの二年間佳主馬が抱え続けた想いと同じで、じわじわと予感が確信に変わっていく。
 終わらせたくないと願う想いは。
「……好きだよ、健二さん」
「っ!」
「好きだよ。健二さんのことが好きなんだ」
 強く強く、一年前は抱きしめられなかった愛しい体を抱きしめる。失うことに怯えて震える人を、強く。
「……でも、僕は……いつかきっと、終わるから」
「終わらせない」
「でも、」
「切らせない」
「……佳主馬くんも、きっと今は勘違いしてるだけだよ。もっと大人になって色んな人と出会えば、勘違いだって気がついて離れ……」
「離れない!」
 震えているくせに強がりで。自分のことになると臆病で自信が無くて、失うことに怯えて怖がって。
「そんな、いつか離れるような半端な気持ちで好きになったわけじゃない!」
 それで、哀しいくらい優しい人。
「……健二さんだって知ってるでしょ。陣内家に半端な男はいらないんだ。そうじゃないと家族を守れない」
「佳主馬くんは、家族を守ったじゃないか」
「でもあの時本当に守ったのは、健二さんだ」
 この細い体で、腕で。頭を使いすぎて鼻血まで出しながら必死になって戦ったのはこの人だ。
 佳主馬が恋をしたのは。
 佳主馬の大切な人たちを、大切な繋がりを守ってくれたのは、この人なのだ。
「健二さんは半端な人なんかじゃないよ」
 ――――きっと栄だってそう思う。
「だから俺を半端な男にさせないで」
 健二はもう約束を守っている。陣内を、栄の愛した家族を家を、大切なものを全て守りぬいた。
「……陣内家は大家族で、その中にそれぞれの家族があって。子供が大人になって家族を作って、そうやって大きくなってきた」
 遠い先祖の子供が家族を作り、その子供が家族をまた作り、連綿と受け継がれる家族の、繋がりの連鎖の一部に佳主馬はいる。
「俺や佳喃も、大人になれば池沢の家じゃなくてそれぞれの家族を持つことになる。それなら、」
 俺の家族は、健二さんがいい。
「……僕は男だよ」
「それが?」
「……子供、とか。佳主馬くんが今まで繋げてきたものが切れちゃうよ」
「何言ってんの、うちには佳喃がいるよ。きっと佳喃がばんばん広げてってくれるから」
 佳主馬が、夏希が、健二が守った命。
 今はまだ解らないけれどきっと自分の妹は強く美しく成長するだろう。あの栄のように夏希のように、陣内の強い女性になる。
「神さまには誓えないけど、栄おばあちゃんに誓うよ。この繋がりを、家族の絆を切ったりしない。切らせもしない。ずっと俺の家族の、……健二さんの傍にいる」
「……っ……!」
「俺たちの繋がりは切れたりしないよ」
 繋がっていく。途切れたりしない。
 夏希と健二が繋がって健二と佳主馬が繋がって、健二が陣内家と繋がって、陣内家がまた誰かに繋がっていく。まだ見ぬ誰かや、未来に向かって繋がっていく。
 ほら、切れたりしない。
「好きだよ、健二さん」
 たとえ切られたとしても、何度だって結びなおしてみせる。諦めの悪さはあなたから教わった。
「だから俺を信じて」
 一人で泣かないで。俺のこの心臓は、あなたに繋がっているから。

「――――……愛してる」

 俺と健二さんなら、できるよ。

「……っ、ふっ……う……!」
 微かな嗚咽が空気を揺らす。
 頑なだった腕の中の体がゆっくりと傾いでいく。それをしっかりと胸に受け止めて、佳主馬は密やかに笑みを浮かべた。
「信じて、待ってて?」
 春になったらあなたのところに行くよ。
『いってらっしゃい』も『おかえり』も、あなたが欲しかったものを全部埋めてあげる。
 永久に切れない繋がりを、絆を結ぼう。
「……きれない?」
「切れない」
「……できる、かな」
「できるよ。俺を誰だと思ってるのさ。OMCのチャンピオン、キング・カズマだよ」
「……そうだよね、うん。……佳主馬くんは、僕の」

 ヒーローだものね。

 そう言って顔を上げ、やっと佳主馬の大好きな笑顔を浮かべた健二を見て。
 本当のヒーローはあなただよ、と胸の内で笑った。