あの人と出会った夏が終わり秋が過ぎ冬が去り、草木が芽吹き始める頃。
「そういえば佳主馬、健二くんに合格おめでとうって連絡した?」
 朝食を食べている時に聞かれた一言に、ああいつかもこんなことあったなとぼんやりした頭で考えた。

「……え」
「え、ってあんた、健二くんからメール来てないの?」
 聞き返した佳主馬に驚いたように目を瞬かせる聖美に、またかと諦めにも似た気持ちで頷く。
 やだ、と聖美は呟き苦笑混じりに嘆息した。
「母さんは、なんで知ってるの」
「夏希ちゃんから連絡が来たのよ。てっきり佳主馬には健二くんからメールしてるだろうって……」
 メールなんてここ数ヶ月してもいないよ、とは言えずに佳主馬は温くなってきたコーヒーを流し込む。その態度をどうとったのか、聖美は佳喃を抱えてあやしつつ肩を竦めた。
「まぁ仕方ないかもね。健二くんも夏希ちゃんに連絡したら舞い上がっちゃって、あんたのこと忘れてるのかもしれないし」
 ――――ぐさりと、目に見えぬ刃物が突き刺さった気がした。
「ごちそうさま」
「あれ、もういいの?」
「……うん。行ってきます」
「行ってらっしゃーい」  鞄を抱えて、聖美の声を背後に冷たい冬の空気の中に飛び出す。
 吐き出した息が白く染まり空へと昇っていく。それを見る余裕もなく、歩き出したはずの足はだんだんと速くなり駆け足になる。

 ――――叫びだしたかった。

 叶うのならば大声で衆目も気にせず、子供のように泣きわめきたかった。
 まだ、負けてない。
 負けてない。勝負はまだついていない。あの日聞いた彼の声を何度も何度も繰り返して、そうやって過ごしてきた。
 受験が終われば、また戻れるかもしれない。何事も無かったかのように健二がメールをくれるかもしれない。そんなふうに祈るような気持ちで過ごしてきた。
 自分を騙してきていた、のに。
「……けん、じ、さん……っ!」
 忘れないで。嫌いにならないで。
 好きになってくれなくても、佳主馬と同じ思いを抱いてくれなくてもいい。
 だからせめて、嫌いにならないで。少しでもいいから傍にいさせてほしい。
 好きだ。
 好きだ、好きだ、好きなのだ。
 諦められたらいいのに、嫌いになれたらいいのにと思うほどに彼のことが好きなのだ。
 鼻の奥がつん、となる。こみ上げてくる嗚咽を飲み下して学校に急ぐ。冬の空気は冷たく、佳主馬の熱をもった頬を冷やしてくれる。普段ならば痛いぐらいの冷えた空気も気にならない。
 そうしてこの想いも凍らせてくれたらいいのに、とじわりと滲む視界の隅で思った。



『合格おめでとう』
 かろうじて送ったそのメールにも返事は送られてこなかった。
 春になり、学年が上がり受験生になって。
 今まで考えていた進路のまま進むか、それとも別の道を探すか佳主馬は悩んでいた。
 聖美や父には相談してある。佳主馬の好きにすればいい、とも言われた。
 十三の頃から企業やスポンサー相手に渡り合ってきた佳主馬のことを両親は信頼してくれている。存分に悩め、と二人は笑ってくれた。
 佳主馬の選べる道は二つある。そのうちのひとつはまず大丈夫で、もうひとつは難しい。
 状況が後者を選ぶことを許してくれていない。それでも諦めることは出来なくて、二つの進路を選ばないままに季節を過ごす。
 そうしてあの人に出会ってから二回目の初夏の季節。
 美しく成長してゆく又従姉妹から、親戚中にメールが送られてきた。
『みんな、健二くんの合格祝い用意しておいてね!』
 ――――弾むような文面のメールに、佳主馬は先延ばしにしてきた想いを終わらせることに決めた。
 彼本人の手で終わらせてもらおうと、夏休みになったら直ぐに上田へ行く準備を整えて。

 七月後半、まだ親族のほとんどが揃っていない上田に単身訪れた佳主馬に、先に来ていた侘助が怪訝そうな顔をしていた。
「何でお前だけ来てるんだ?」
「こっちのほうが、受験勉強はかどるから」
 嘘はついていない。まだ全員が集まっていない上田の家は静かで、納戸にこもっていれば誰も邪魔しには来ない。ただ、それは建前なだけで。
「ふーん……」
 どこか観察するような侘助の視線や理一の読めない笑顔から逃げて、佳主馬は黙々と勉強を進めた。
 夏希のメールでは明日の正午過ぎには到着すると書いてある。
 もう一年近くあの人の顔を見ていない。何か変わったところはあるだろうか。背は越したか、それとも彼も伸びただろうか。
 やっと会えるという歓喜と、それを凌ぐ不安が胸にひたひたと忍び寄る。夏希と健二の二人は明日、どんなふうにここに来るのだろう。
 手を繋いでやってきたりしたら。腕を組んだり、仲睦まじくやってきたらその時点で全ては終わる。
 納戸でひとり、眠れない夜を過ごして。
 そうして佳主馬にとっての運命の朝はやってきた。



「――こんにちは!」
「夏希、それに健二くんも。遠いところお疲れ様、いらっしゃい」
「お久しぶりです、今年もお世話になります」
「あっ、来たわねー今年の主役!」
 玄関口がにわかに騒がしくなったのに気がついて、一度呼吸を整えると佳主馬はそちらへ足を進めた。
 万里子や直美、侘助や理一、休みだった翔太などもみな出てきていて二人を迎えている。それを近付きながら眺めて少しだけ安堵した。
 良かった、手は繋いでいない。
 強張っていた肩の力を抜いて上がり口へ歩を進める。すると夏希が直ぐに気がついて顔を輝かせた。
「佳主馬!? うっわまた大きくなったね!」
「まぁね」
「え……っ」
 夏希の声にはっとして隣の彼が――健二がこちらを見上げて。
 そして彼は、ぱかっと口を開いて間抜け面を晒した。
「…………え、えええええええ!?」
「驚くのも無理ないかー」
「一気に伸びたもんねぇ。今何センチ?」
「178ぐらい。まだ伸びてるけど」
「もうすぐ理一に追いついちゃうわね」
 からからと笑う女性陣と対称的に、健二は呆然とした表情で佳主馬をぽかんと眺めていた。
 驚きもするだろう――最後に会った去年の五月から佳主馬の身長はぐんと伸びて、今や祖父である万助も少しではあるが追い越した。
 健二はといえば、成長が止まってしまったのか前に会った時とほとんど代わり映えなく、顔かたちも特に変化は無い。相変わらず細くてひょろひょろのままだ。
「去年来た時も伸びてたけど、ここまで伸びるとは思わなかったな」
「何それ」
「褒めてるんだよ。体格も立派になってきたし」
「こ、声も……」
「声変わり始まったからね」
「あーんなに可愛かったのに。あのままのほうが良かったんじゃないのぉ?」
 直美のからかい混じりの言葉に、じろりと睨んでため息をつく。可愛いのは下の子供たちだけで十分だ。
 挨拶もすんだことだし、と万里子が夏希と健二を上がらせる。その時、不意に絡んだ視線に佳主馬の心臓は跳ね上がった。
「……なに? どうかした?」
 変に上擦っていなかっただろうか。何時も通りだっただろうか。
 ほんの少し焦りつつ平静を装って問いかければ、健二は何か眩しいものを見るような目で佳主馬を眺める。
 その視線が少し居心地悪く、佳主馬は首を傾げた。
「……ううん、佳主馬くん凄く大きくなったなって」
 彼は変わらない。けれど、何かが変わってしまった。
 静かな声と浮かべられた少し硬い笑みに、佳主馬の心のどこかがずきりと痛む。
 どうしてそんな、寂しそうな笑みを浮かべるのか。
 その理由を問う前に健二が夏希に呼ばれる。そして彼は後ろの佳主馬を一度も振り返らずに、そのまま奥へと入っていった。