「…………え?」
「だから、今年はもう帰っちゃったんだよね」

 夏希の不機嫌交じりの残念そうな声に、停止していた思考が動き出した。

「どういう、こと」
「ほら、健二くん今年は受験でしょう? 第一志望の大学ってけっこう難しいらしくて、今年は夏期講習とかゼミでいっぱいなんだって」
 まぁ健二くん頭いいから仕方ないけど――そう呟く夏希の声を佳主馬は呆然として聞く。
 そんなこと、一度も聞かなかった。
 毎年恒例の夏の上田には去年から、本当は親戚じゃないけれど、皆に認められた『親戚』が来ているはずだった。
 それを七月の始まりに夏希からメールで知らされていたし、健二に聞いた時も行くと聞いていた。けれど佳主馬が来る前に帰るなんて聞いていない。
 呆然とする佳主馬に何を思ったのか、夏希は苦笑してため息をついた。
「昨日突然なんだよね。携帯見てたら暫くして慌てだしたんだけど、ゼミが今日からだったのすっかり忘れてたんだって。だからお昼ぐらいに残念です、って言いながら帰ったんだよ」
「本当、残念ねぇ」
 佳主馬の隣で言葉通りの表情を浮かべた聖美がため息をついて笑った。
「健二君に佳喃を会わせたかったのにね」
 その腕の中、すやすやと眠る幼子に夏希が小さな歓声をあげる。
「かっわいい!」
「目元が小さい頃の佳主馬そっくりでね。私にも旦那にも似てないから、お父さんがっかりしちゃって」
 笑いながら聖美が言うのに夏希も楽しげに笑う。
 先に来ていた親戚たちが新たな親戚の一員に構い始める中、佳主馬はいつものように一人納戸へと足早に向かった。


『なんで早く帰っちゃったの』
 駄目だ、これじゃ子供すぎる。
『なんで教えてくれなかったの』
 そもそも、発端はそこなのだ――このところ健二と連絡がとれないことが多くなった。
 去年の夏から週に一度はしていたチャットもここ数週間断られ続けており、メールの返事も遅い。
 今回も佳主馬が健二に出した『今年も来るよね?』のメールよりも先に夏希からのメールが届いていた。
 ……なにかしてしまっただろうか。
 何か知らないうちに、健二が不快に思うようなことでもしてしまったのだろうか。それとも、傷つけたか。
 連絡がとれなくなってから幾度となく繰り返した問いに佳主馬は頭を抱えた。
 液晶の中、メール画面と共に開かれたキング・カズマの姿が佳主馬と同じく、どこか悩んでいるようにも見える。
 所在なさげに佇む白いウサギの隣に、黄色いリスの姿が見えないのが寂しく見えて、ぽつぽつと片手だけでキーボードを叩いた。

『母さんが佳喃と会わせられなくて残念だって。もちろん、僕も残念だけど。健二さんが帰っちゃうならもっと早く来たのに』

 これぐらいなら大丈夫だろう。
 妹と母親を引き合いに出すことに情けなさを感じつつも、ほんの少しの本音を交えて送信ボタンを押した。
 ――――それから三時間。
 いまだに返信は来ていない。
「佳主馬ー、飯だってよ」
「……後で行くって言っておいて」
「……オメーも妹できたんだから、ちったあ兄貴らしくしたらどうなんだよ?」
「万作おじいちゃんにバカって言ったり、父親をてめぇ呼ばわりする人に言われたくない」
 前に聞いた話を引き合いに出せばうぐ、と翔太が言葉に詰まる。ぴくぴくとこめかみが動いていることに気付きつつも、佳主馬は翔太から視線を離し液晶に目を落とした。
「……っ、」
 ドスドスドスッ! と、荒い足音を立てて翔太が戻っていく。大人気ない八つ当たりをしてしまったことにため息をついた。
「荒れてるなぁ」
 不意に背後から声がして振り向くと、そこには理一がいつものように食えない笑みを浮かべながら立っていた。
「……なんの用?」
「可愛いはとこの子と、たまに会う時くらい話がしたいなと思っちゃいけないのかい?」
 笑みを絶やさずさらりと問いかけてくる理一に佳主馬は目を眇める。
 理一はそれに頓着することなく手に持っていたグラスのひとつを佳主馬に渡すと、戸口の辺りに背中を預けて寄りかかった。
「残念だったね、健二くんに会えなくて」
「…………いきなりなに」
「おや、てっきり健二くんに会えなかったから拗ねているんだと思っていたんだけれど」
「拗ね……!」
「違うのかい?」
「違う!」
 ああ、これじゃあその通りですと言っているようなものじゃないか!
 そんな佳主馬の苛立たしい感情すら見透かすような理一の笑みに唇を噛み締める。カラン、とグラスを揺らしてぶつかる氷の音を聞きながら、理一は悪戯っぽく肩を竦めた。
「見た目はどんどん成長していくけど、中身はまだまだみたいだな」
「どういう意味」
「陣内家の人間に、半端な男はいらないってことさ」
 妙に似合うウィンクをひとつして、理一は言いたいことだけ言うと納戸を出て行った。残された佳主馬は最後の言葉に眉を寄せる。
 半端な男――確かにそうかもしれない。
 言いたいことも言えなくて、人に八つ当たりするような男は半端なのだろう。もし栄が生きていて今の佳主馬を見たら、怒鳴りつけるぐらいのことはしたかもしれない。
 ……けれど、どうしたらいいというのだ。
 彼も自分も男で、そして彼には好きな人がいて。
 勝ち目のない勝負だなんて最初から解っていて、それでも諦めきれない半端な自分。そのことに気がついていてもどうすることも出来ない。
 そんな鬱屈した気持ちを抱えながら麦茶を煽っていると、不意にパソコンから軽快な音が響いた。
「!!」
 液晶に目をやれば黄色いリスがウサギの周りをくるくる回っている。暫くするとキング・カズマが仮ケンジからメールを受け取り、それを確認してリスは姿を消した。
「っ、」
 急いでキーボードを叩きメールを開く。そこには簡素な文章が記されていて、佳主馬はその文の素っ気なさに思わず拳を握り締めた。
『ごめん、夏期講習があったの忘れてたんだ』
 今までの健二からのメールは、もっと温もりを感じさせる文章だった。こんな感情の読み取りにくいメールは無かったはずだ。
 そのことに気付き、佳主馬は愕然とした。
 ――――避けられている。
 本当は夏期講習なんてなくて、佳主馬が来るのを知って帰ったとしたら?
 たとえ夏期講習があったとしても、今までの健二ならもっと残念そうなメールを送ってきていたはずだ。
 去年の夏から少し前までのやり取りを考えると間違っていないだろう。
 じゃあ、なぜ健二は佳主馬を避けるのか。
 その答えを出すのには恐ろしく、佳主馬は半ば呆然としながらキーボードを叩いて返信を打った。
『仕方ないね。休みのどこか、また遊びに行ってもいい?』
『ごめんね、受験勉強で暇が全然なくて』
『わかった、ごめん。勉強頑張って』
 エンターを打つ指先が震える。
「……うそつき」
 佳主馬は知っている。
 夏希がさっき、健二とテーマパークに遊びに行く約束をしたと話していたことを。
 嬉しそうに微笑みながら、二人で行くのだと話していたのを佳主馬は聞いていた。
 夏希は健二のなかで別格だろう。好きな人なのだからそれは当然だ。けれど、それでもこれは嘘だと、直感的に解ってしまった。

 僕よりも夏希姉と遊びに行くほうが大事?

 もしそんな問いかけをして是と返されたら、立ち直れない気がした。




 その日から、目に見えて健二の態度が硬化した。
 今までは少しばかり遅かったメールの返事も果てには返ってこず、チャットは誘う隙すら与えられなくなった。
 佳主馬の嫌な予感は当たり続け、夏希にそれとなく様子を聞けば勉強は至って順調で、このまま行けば合格間違いなしと太鼓判を押されたらしいことも聞いた。
 夏希と佐久間と健二、三人で遊びにも行ったらしい。
 佳主馬にはメールの返事すら来ないというのに。
『まー、今度は健二も一問も間違えないように必死みたいだからさ。終わったら構ってもらえば?』
 健二さん忙しい? と佐久間に平静を装って聞いた時ものらりくらりとかわされて、健二が佳主馬をどう思っているのかなんて聞けなかった。
 忙しいのなら邪魔はしたくない。けれど、佳主馬に対する『忙しい』は本当に忙しいのだろうか。
 考えれば考えるほど解らなくなって苦しくなる。
 今までいじめられた時だって、こんなに苦しくはならなかった。悔しくなりはしてもこんなに胸が苦しく痛むことはなかったのだ。
 解っている、解っている。
 健二の好きな人は夏希で、夏希も健二が好きで、健二にとって佳主馬は好きな人の親戚の一人でしかない。キング・カズマである佳主馬と切り離せばそれだけの関係でしかない。
 あの夏がどんなに劇的であったとしても、友人と呼べる関係になろうとも健二の中で佳主馬は弟のような存在にしかなれない。

 解っている、解っている解っている解っている。
 理解していても、心が悲鳴をあげる。

 ほんの数ヶ月前は、手を伸ばせば届く位置にあの人はいたのに。今は幾ら手を伸ばしたって届きはしない。
 健二が階段で転んだ時に掴んだ腕を思い出して、佳主馬は自分の掌を見つめる。
 ……あの時触れた腕の感触は、今もまだ鮮明に思い出せるのに。
 今はもうモニターの向こうにすら、彼の笑顔を見ることが出来ない。