召しませ、愛情

「は? お前行かないの!?」
「行くなんて言った覚え一言もないけど」
 顔面に驚愕という文字を貼り付けた同じゼミの一人に、佳主馬は授業中結んでいた髪を解きながら答えた。固まっている相手を放りだし、帰り支度を進める佳主馬の姿に相手はぎょっとした様子で肩を掴んでくる。
「ちょ、何でだよ! お前来ると思ったから女の子も多いんだぞ!?」
「人をアテにするなよ。大体、合コンなんて興味もないし」
 じゃあね、と言い置いて帰ろうとする佳主馬の体を傍にいた知り合いたちが慌てて掴む。その腕に剣呑な視線を向ける佳主馬に男子たちは拝むように手を合わせた。
「頼む! お前がいなかったら後で何言われるかわかんねーんだよ!」
「知らないよそんなこと。第一、人の都合も考えてくれる? 俺は今から用事があるんだけど」
「用事? 時間ずらすとかまた後日とか何とか出来ねぇの?」
「無理。前から決まってたし、何より俺が楽しみにしてたから」
 必死になっていた男子たちが佳主馬の言葉に驚いた様子でえ、と目を瞬かせた。そこでやっと、佳主馬の様子が普段とは違うことに数人が気がつく。そのなかの代表――まぁまだ友人と認識していいだろう男――が恐る恐る、反応を窺うように佳主馬を見つめた。
「……池沢」
「なに」
「お前もしかして」

 ――――浮かれてる?

 まさか、という気持ちを多大にこめただろう問いかけに、しかし佳主馬はそれを裏切り「悪い?」と平然と返してみせた。
 




 浮かれるに決まってる。
 今日は、一ヶ月離れていた恋人がやっと帰ってくる日なのだから。

 知らず知らず早足になる自分に苦笑する。だけれども気が急いてしまってしょうがないのは事実で、さっさとバイクに跨るとキーを差し込む。
 腕時計を見ればもう着いている頃合だろう。逸る気持ちを宥めつつ、佳主馬は大学を後にした。

「ただいま!」
 扉を開け放って見えたのは自分のものではない靴。それを見て口が綻んだと同時、廊下を歩いてくる姿に部屋の中へ飛び込んだ。
「あ、おかえり佳主馬く……」
 恋しかった人を腕に閉じ込め強く抱きしめて、そうして腕の中の温もりに安堵を覚えた。どれだけ自分が飢えていたのかを思い知らされる。骨抜きになっている自分がおかしくて、でもそれ以上にこの存在が愛しくて。
 佳主馬はそっと腕の力を緩めると、見上げてくる恋人の額にキスを贈る。
「おかえり、健二さん」
「……うん。ただいま、佳主馬くん」
 目をぱちりと瞬かせて、そうして健二は変わらぬ穏やかな笑顔を佳主馬に向けた。


「どうだったの?」
「面白かったよー、いろいろ勉強になったし」
「そう」
 疲れているだろうから夕飯は外に出よう、と言った佳主馬の言葉に首を振った健二は台所から返事を返す。
 普通のご飯が食べたくて、と苦笑混じりに言った彼は佳主馬が帰ってくる前から支度を始めていたらしく、部屋にはいい匂いが漂ってくる。
 そういえばここ最近家で食べていなかったな、と考えた瞬間思い至った事実――自分のうかつさに佳主馬は顔を手で覆った。

 …………冷蔵庫のなか、空っぽだったかも。

 健二がいない部屋で何か作って食べるのは面倒で、ついつい出前だとか外食だとかコンビニだとかに頼ってしまっていたのをすっかり忘れていた。その間、当然買い物はしても食料品なんて買ってくることはほとんど無くて、と、すれば。
「…………ごめんね、健二さん……」
「え? なにが?」
 思わずふらふらと立ち上がって台所の健二を後ろから抱きしめる。
 きっと彼は帰ってきて冷蔵庫を見て買い物に出かけたのだろう。一ヶ月の慣れない海外旅行で疲れているにも関わらず。そうして恐らく、佳主馬のここ最近の食事情を察したに違いない。
 着々と出来上がりつつある佳主馬の好物を見下ろしながら、がっくりと項垂れて健二の頭に顔を埋めた。
「……かーずまくん?」
 くすくす、と密やかな笑みが鼓膜を擽る。ふわりと髪から漂うのはいつものシャンプーの香りじゃなくて、妙に切ない気分になった。
 ぽんぽん、と宥めるように回した腕を叩かれる。それでも何故かまだ離れがたくて腕の力を強めれば、カチ、とコンロの火が消えた音が聞こえた。
「どうしたの?」
 大丈夫? と笑みを含んだ声で聞かれて敵わないな、と苦笑する。
 この人は一見頼りなくて鈍いけれど、甘やかすことにかけては天下一品だ。今思えば陣内の子供たちが健二に懐いていた理由が良く解る。恐らく夏希があの時に健二を選んだのもそういう理由なのだろう。

 この人は、本当に優しくて。

 まだまだ追いつけないな、と少しだけがっくりしたりするのだ。
「……ん、大丈夫。ごめん邪魔して」
「ううん、もう終わるし。……それに」
 回した腕にそっと手が触れる。抱きかかえるように胸の前に佳主馬の腕を持ってきた健二は、照れくさそうに佳主馬を見上げて笑う。
「僕も、ちょっと寂しかったから」
 ……一ヶ月は長かったね、なんてはにかんで笑うからタチが悪い。
 本当に、どれだけ自分を惚れさせれば気がすむのか、彼は何度だってこの心臓を打ち抜いてくる。

 アメリカにある侘助の研究室に呼ばれ健二が旅立ったのは一ヶ月前。たった一ヶ月だ。
 付き合う前は名古屋と東京という距離のせいで、一年に二三回しか会えなかったことを考えれば格段にマシな状況だ。
 アメリカに行ったってOZを経由すれば、チャットも電話もメールもカメラで姿を見ることだって出来ていたのに、全然足りていなかったのだとこうして抱きしめて実感する。
「楽しかった?」
「うん! 侘助さんの研究室凄かったよ」
 顔をキラキラ輝かせて頷く健二に羨望、侘助には軽い嫉妬を。
 まったく、さっさと結婚するかどうかしてくれればまだ安心するというのに。陣内の年上男性二名は健二を虎視眈々と狙っているらしく、勧誘活動に余念が無い。
 それが職場や研究に関してだけだとしても面白いわけがなく、からかいのネタにされると解っていても佳主馬は嫉妬せずにはいられなかった。
 健二が行きたいと言ったり興味を持つものならば止めたりはしないが、嫌なものは嫌なのだ。
 この人は、自分のものなのだから。
「お土産も買ってきたから後で開けようね」
「うん」
 佳主馬の胸に擦り寄るようにして顔を寄せてくる健二の頬に手を添えれば、意をくんだように顔が上向きになる。顔を下ろして柔らかな唇に口付ければ、胸を温める感情と湧き上がる飢餓に苦笑した。
「……あのさー、健二さん」
「うん?」
「俺すっごくお腹空いてるんだよね」
「え、そうなの? じゃあさっさと作っちゃ……」
「健二さんが食べたくて仕方なくなっちゃったんだけど」
 ダメ? と首を傾げて問いかける。
 呆けたようにこちらを見上げてくる顔が少ししてふわりと綻んで、

「どうぞ、召し上がれ?」

 嬉しそうに微笑むものだから「いただきます」と手を合わせて美味しく頂いた。





「はい、あーん」
「自分で食べれるのに……」
「俺が甘やかしたいの」
 ね? と健二が弱い笑顔で促せばしぶしぶ口が開く。その口にスプーンを運びながら佳主馬は片腕でぎゅっと抱きしめた。
「……やっぱりうちが一番落ち着くよね」
 膝の上に乗せた健二がそう呟くのに佳主馬は頬を緩める。
 落ち着くのは二人一緒だからと、そう解釈してもいいだろうか。
「健二さん、俺にも」
「……仕方ないなぁ」
 はい、あーん? と佳主馬から受け取ったスプーンが口元に運ばれる。この家にいて食べ物が美味しいだなんてここ数週間感じていなかったけれど、やはりそれは佳主馬も一緒で。

 美味しい恋人と、恋人の作った美味しいご飯をめいいっぱい食べて。
 佳主馬はようやく一ヶ月近く感じていなかった満腹感を味わったのだった。



ごちそうさまでした。