今の自分に足りないものは

 “あらわし”が落ちた影響が母屋にはあまり響いていなかった、とはいえど佳主馬が根城としている納戸も無傷とは言えなかった。
 幸い破損個所はないものの、棚に積み上げられていた箱や行李、本棚の本が薄暗い部屋中に散らばっている。それでも何とか一人でも片づけられそうなぐらいであることに安堵しつつ、佳主馬は床板に足を踏み出した。

 遠くから喧騒が聞こえてくる。絶え間なくやってくる弔問客と、家族たちの声だ。子供と違い、大人はみんな朝から忙しい。
 挨拶ぐらい(それでさえ無愛想に)しかできない佳主馬は、早々に戦力外通告を受けてその場から外れた。別に居たいわけでも無かったのでこれ幸い、とばかりに家に入る。
 身重の母が少し心配だったが、父も来たことであるし大丈夫だろう。そうして納戸の惨状に手を付けようと、佳主馬は散らばった本を手にとった。



「あ、健二くん!!」
 姿を見るなり駆け寄ってきた夏希の顔を見て、健二はホッと安堵の息をついた。
「ただいまです、先輩」
「大丈夫だった?」
「はい。侘助さんが出頭した時に僕についても説明しておいてくれたらしくて、そんなに時間もかからずに済みました」
「もともと君だってある意味被害者なわけだからね。詳しい話は東京に戻ってからってことになったんだよ」
 理一がおつかれさま、と肩を叩くのに首を振り健二は改めて彼に頭を下げる。
「いえ、僕こそ付き添ってもらってありがとうございました」
「いやいや、我が家を救ってくれた恩人なんだからこれくらい当然だよ」
「恩人だなんて……僕は何も」
「謙遜することはないさ。君のお陰で家が全壊せずに済んだんだからね。……ああでも、」

 ――――お礼に僕の部署に来てくれるって言うなら、大歓迎だけどね?

 悪戯っぽく笑いながら言う理一に健二は苦笑した。
 正午も近くなって警察へ向かったというのに、夕方に帰ってこられたのは侘助のおかげだ。
 彼が健二のことも含めて話しておいてくれていたからこんなに早く帰ってこられたのだ。そうでなければ今日中に帰ってこられたかすら怪しい。
 自分よりも大変だというのに、きっちりと根回しをしておいてくれた彼に感謝した。
 今はバタバタしているし、これから忙しくなるだろうから暇は無いだろうけれど、時間が空いたらじっくり侘助と話してみたいと思う。最初は夏希のこともあり彼に向ける感情は複雑だったが、今では羨望のほうが上回っている。
 ラブマシーンによる被害は甚大だったとはいえ、あれだけのAIを作った人物だ。その頭脳には心惹かれるものがある。
 その前に、彼が自分と喋ってくれるかが問題だが――そんなことをつらつらと考えていたら返事がおろそかになっていたらしい。ふと気がつくけば夏希が顔をむくれさせて健二を見ていた。
「もう、健二くん聞いてる!?」
「あ、う、すみませんちょっとぼーっとしてました……」
「まったく……でも健二くんも疲れてるんだし仕方ないか」
 慌てて謝る健二にため息をつき、夏希は苦笑する。夏希だって朝から弔問客やら家の修理やらの手伝いで忙しかったろうに、微塵もその疲れを表さないのはさすがと言うべきか。
 そんな夏希の様子に、今はもう会えない栄を思い出して寂しく思った。
「とりあえずこっちもひと段落してきたし、健二くんもお腹空いてるよね。若者組は先にご飯食べててって、言われたから一緒に食べよ?」
「あ、はい。何かお手伝いすることはありますか?」
「そうね……あ、佳主馬が納戸で片付けやってるはずだから、呼んできてくれるかな?」
「わかりました」
 理一と夏希とはそこで一度別れ、健二はそろそろ覚えてきた道を通り納戸へと向かう。
 途中途中見られる墜落の爪あとに苦い思いがこみあげるも、この屋敷が全壊するようなことにならなくて良かったと思った。
 この屋敷は陣内家の先祖が、栄がずっと守りとおしてきた場所で、大事な家だ。
 その屋敷を守ることが出来て本当に良かったと思う。栄や陣内家の繋がりから早くも復旧作業は進められているし、この分なら大丈夫だと万理子も言っていた。
 自分に出来ることはほとんどなくて。迷惑をかけてばかりで疫病神のようだったけれど、この家を、この暖かい陣内家の家族を守ることが出来て、本当に良かった。
 ふわりと、思わず淡い笑みを浮かべながら納戸に続く廊下を曲がって――入り口から見えた光景に、健二はぱちくりと目を瞬かせた。



「……く、っそ……!」
 ふるふると足が震える。ピン、と頭上に伸ばした腕も小刻みに痙攣している。それでも届かない棚を眺めて、佳主馬は悪態と共に舌打ちをした。
 納戸の片づけを始めてから数時間。ようやく床に物が無くなってきたものの、問題は棚の上に積み上げられていたものをどう戻すかだった。
 悔しいが、佳主馬の背では棚の上にまでは手が届かない。棚の上に乗っていた箱や行李やらを戻すのは早々に諦めた。しかし、その下までならば片付けられるのではないかと挑戦してみたものの、めいっぱいに腕を伸ばしてみても、僅かに手が届かない。
 諦めればいいのだろうけれど、あともう少しで届くのだ。それに――これくらいのことでへこたれていたら、なんとなく負けのような気がした。

『負けてないよ』

 ふとした時に耳の奥でよみがえる、声。
 力強い言葉。
 初めて会った時とは全然違う。彼にあんな強さがあったなんて思わなかった。
 誰もが絶望に打ちひしがれたなかで彼は諦めなかった。負けなかった。その強さが眩しいと思った。
 OZの中でも現実でも、佳主馬は腕を磨き体を鍛え勝ちにこだわり続けてきた。勝つ、ということに何よりも重きを置いてきたつもりだった。
 けれどあの時、佳主馬は確かに負けたのだ。心があのAIに打ち負かされたのだ。
 頼りないように見えて実際頼りなくて、おどおどしてて自分に自信が無くてびくびくしてて――でも、優しくて。  笑顔が綺麗で数学が得意で、それで、芯は強くて。
 “他人”に興味をもったのは初めてだった。

 だからこんなことでいちいち躓いてなんかいられない、まだまだ佳主馬には目指すところがあるのだ。
 あの人にもっと近づきたい。もっと強くなりたい。
 はやくはやく、あの人に――――

「これ、ここ?」

 そのとき、スッと手から抜き取られた本は棚にあっさりと納まった。

「………………え」
「あれ、違った?」
 差した影に呆然と頭上を見上げれば思いのほか近い距離に顔があって、少し動揺した。
 そんな自分の動揺など微塵も気がつく様子なく、健二は周りを見渡してへらりと笑みを浮かべる。
「すごいね佳主馬くん、ここ一人でこんなに片付けちゃったんだ」
「……もともとそんなに散らかってもなかったし」
「でも初めて来た時とほとんど変わらないし。……あ、これもここの棚?」
 周囲を見ていた健二が床に積み上げられていた本を手に取る。佳主馬が無言で頷けば、彼はにっこり笑ってさくさくと棚の上に本を戻していった。
 みるみるうちに片付けられていく本が正直恨めしい。と、いうか健二が少し恨めしい。
 ……せっかく、頑張ろうとしていたのに。
 そりゃあ、棚に本当に全部戻せたかと言われれば微妙なところだが(むしろ無理だったかもしれない)それでも頑張ろうとしていたのだ。その誓いを好意とはいえ破ることになってしまったのが、少々悔しい。
 数分もしないうちに片付けられてしまった本に、不承不承ながらも佳主馬は口を開いた。
「……ありがとう」
「お礼言われるようなことなんてしてないよ。困ってたら助け合うのは当然だし」
「……健二さんを助けるようなことなんてしてないし」
「そんなことないよ!」
 少しふてくされたような佳主馬の声に、健二が語気を強めて叫んだ。
「な……」
「佳主馬くんは、僕を信じてくれたじゃないか」
「え?」
「最初に犯人って疑われたときも、パソコンを貸してくれたときも、佳主馬君は信じてくれてたでしょう?」
 そう言って柔らかく微笑む健二に、佳主馬は『やられた』と内心で呻いた。

 なんで、この人は“こう”なのだろう。

 決して彼はただ強いわけではない。要領が悪くて引っ込み思案で、欠点をあげれば幾らだって出てくるのだろう。人当たりについては人のことを言えないけれど、彼は高校二年生の男とは思えないぐらい細くて明らかにインドア派だ。
 でも、彼は自分がまだ持てない、持っていないものをたくさんその腕に抱えている。
 それが羨ましくて恨めしくて――――そして、愛おしい。
 何で悔しいのか恨めしいのか、健二の傍の夏希が、仲良くなっていく親戚たちが、彼の友人のサクマが嫌だと思うのか。
 その答えは、きっととっくに解っている。でも、まだ今の佳主馬ではその言葉を言うことが出来なくて。
 だからこそ、追いつきたいと願うのだ。


「……あと三年」
「うん?」
「ううん、あと二年したら健二さんの背なんて直ぐに追い越しちゃうから」
「ええー? うーん、でも佳主馬くんおっきくなりそうだからなぁ……。抜かされちゃうかも」
「直ぐに追い抜くよ。――――だから」


 次は、僕が健二さんを助けるから。


「……うん。ありがとう、佳主馬くん」
 真っ直ぐに見上げたさき、恋しい人が花開くように微笑んで。
 いつかその笑顔を見下ろせるようにと、誓いをたてた。



数え切れないほどに、多く