――――指先から溶けてしまいそうだ。 向けられる柔らかな微笑みが、声が。ふとした瞬間に触れる手や体が。 鼓動が飛び跳ねて、心臓の音が聞こえやしないかとひやひやする。そんなわけないと解っていても耳に響く音がうるさくて。それはそのうち心臓が破裂してしまうに違いないと思うほど。 そんな自分を厭う時期など疾うに過ぎ去り、今はただただ夢見るようにまぶたの裏に思い描いて。 必死な自分に思わず笑ってしまうほど。 君に、恋している。 *** 空は、快晴。 就業中の隊舎内を漂う空気は程よい緊張と余裕を孕み、時間は穏やかに流れる。 いつもであればこんな日は副官が隙を見ては逃げ出そうとするのだが、今日ばかりは彼女もそんなことはしない。一時の余暇に身を任せ、簡単には得がたい幸福な時を自ら捨て去る。そんな勿体無いことを彼女がするわけがないのだ。 昨日から机に黙々と向かう彼女が珍しいのか、書類を届けに来る人々は皆揃って首を傾げる。けれども今日が何の日なのかを告げてやれば、皆「ああ」と納得したように頷いて笑うのだ。 今日という日を待ち侘びるのは彼女だけではない。自隊の隊士も他隊の隊士も副隊長たちも、更には隊長たちに至るまで皆この日を楽しみにしている。業務は通常と滞りなく行われているものの、どこか落ち着きの無さが目に付くのは仕方が無い。 祭りの日の子供のように、皆が待っている。それはもちろん――この自分も。 クッと咽奥で笑っていると不意に生じる霊圧。直ぐに判ったその霊圧の持ち主に、机に向かっていた副官の目が輝いた。 「隊長!」 「……もし来たら、な」 "もし"だなんて何て嘘くさい言葉だろうか。 解っているのだ、あれが必ず来るだろうことを。それでも素直に言ってやれないのは、自分もほんの少しの恐れを抱えているからだ。本当に、笑ってしまう。 死神である自分たちと比べればまだ幼子といっていいほどの子供に、こんなに振り回されているなんて。 それでも自分を嘲笑うより、子供に気をかけるほうがずっと有意義だと思うなんて――そんな自身の変化に彼はゆるりと口の端を吊り上げた。 *** 朝、目が覚めた時からそわそわしている自分に気がついている。そんな落ち着きの無さを妹にまで見透かされて「今日はお兄ちゃん楽しそうだね」と笑われた。 そんなガキくさい自分を恥ずかしいと思うけれど、それでも心が浮き立つのは隠しようが無い。……だって、本当に嬉しいのだから。楽しみだったのだから。 今日は週に一度の定期報告の日。といっても特別報告するようなことなんてほとんど無いから、実際には顔見せのようなもの。最初は何でそんな面倒くさいことをするんだか、と思ったりもしたけれど。 今ではその日が待ち遠しい自分がいる。 「なぁコン、俺変なところねぇよな?」 「大丈夫だってーの、いいからさっさと行けよ。早く行けば、そんだけ居られる時間が増えるんだろ?」 「でもやっぱ切りすぎた気がする……」 「そんなに気にしなくても大丈夫だって! ちょっと切りすぎたくらいじゃおかしくもなんともねぇからよ」 「…………本当だな?」 「おうよ!」 「もし変って言われたら、帰ってきて遊子の部屋に放り込んでやるから覚悟しとけ」 「でぇぇぇぇぇ!?」 後生だからそれだけは! と叫ぶコンの悲鳴をBGMに、代行証を体に押し当て死神化する。 いい加減なこと言うなよ、こっちはこれ以上ないほど真剣なんだ。 だって少しでも良く見せたい、良く思われたい。そのためなら普段はちょっといい加減な髪だって、遊子や夏梨に怪訝そうな顔をされたって整えてやる。 服装なんかは変えられないけれど、汚くないかとか折れてないかとかちゃんとチェックもする。不精なヤツだとは思われたくねぇんだ、あいつだけには。 コンがそんな自分をどこか呆れたような目で見てくるけれど、それでも毎回身支度を確認することはやめられない。本当にこっちは必死なのだから。 ああ、まったくらしくない。 らしくないけれど。……そんなことより何よりも、あいつのことが気になって、好きでしょうがないのだからどうしようもない。 そうだ、好きなのだ。 自分はあいつが――十番隊隊長、日番谷冬獅郎のことが好きなのだ。 出会ったのは、他の隊長や副隊長達と比べたら一番後に等しい。それなのに、尸魂界に来た時一番長く滞在するのは十番隊で、いつからそうなったのかは自分でもよく覚えていない。気がつけば『そう』なっていたのだ。 まるでこの世の綺麗なものを集めて束ねたような銀糸の髪、きらめく宝石みたいな翡翠色の瞳。 小柄で細いけれど、たくさんのものを背負った強い背中。羽織が示す責任の重さを、彼はまるで無いもののように扱ってしまう。 静かな湖面のような目が、凛としているけれど優しい空気が彼を包み込んでいて。自分のような餓鬼などでは決してない。彼は正しく自分よりも年月を重ねてきた大人なのだ。 見た目だけならば彼は自分よりも子供だ。身長も体格も大人と子供ほどある。 けれど死神である限りそんなのは瑣末なことで、護廷は実力社会だ。上に立つ能力があると示せばそんな小さなことは簡単に受け入れられる。だからこそ彼は十三人しかいない隊長の、その中に在る。 そんな彼とまだたかだか十六しか生きていない自分なんて、それこそ幼子と大人くらいの差があるのだと彼と過ごして知った。それこそ、彼の中身の部分も。 普段は厳しくて生真面目だけれども、ふとした瞬間に見せる笑みだとか優しい言葉だとかにどんどん惹かれて。そうしていつしか彼の傍にいたい、もっと近付きたいと思ってしまって。 『――――それは恋というヤツではないか?』 たまたま会ったルキアにそんなことを洩らしたら、ルキアは目をまん丸に見開いてからズバリとそう言って指を突きつけてきた。 『あ、アホか! 何でそんなことになるんだよ!?』 『日番谷隊長殿と一緒に居たくて、仲良くなりたくて、隊長のことをもっともっと知りたいと思うのだろう?』 『……おう』 『それは、お前が日番谷隊長のことを好きだからではないのか?』 その時はまさか! と笑い飛ばした。 けれどルキアの言葉を妙に意識してしまったせいで暫く距離を置くと、途端に言いようの無い寂しさだとかイライラが胸の奥に舞い込んで。 そんな自分が信じられなくて、軽く試すくらいの気持ちで会いに行き――向けられた綺麗で優しい笑顔に、すとんとその想いは胸に収まってしまったのだ。 お邪魔します、と入室する度に告げていれば少し眉が寄せられて彼は苦笑する。 『邪魔じゃねぇよ』 ガキのくせにいちいち気にすんな、と告げる目が、笑みが。黒崎、と呼ぶその声が。胸の奥がぎゅっと詰まって苦しくて、でも――それ以上に嬉しくて。 ああ、俺は冬獅郎が好きなんだ、と気づいた。 気付いてしまったその日から今日まで、絶え間なく心臓は日々飛び跳ねっぱなしだ。 現世にいても銀色や緑色を見ると彼をつい連想してしまうし、顔を合わせる度に向けられる笑顔とかに、イロイロとやられっ放しで。ほんの少し触れた指先だとかにもいちいち鼓動は高鳴ってうるさくて。 ……そんなこと、冬獅郎は少しも気がついていないだろうけれど。 叶わない望みだなんて知ってる。現世の子供と死神で隊長の彼、釣り合うことが無いことも彼がそんな風に自分を見るわけが無いことも。 けれど初めて知ってしまった感情は、止まることを知らなくて。初恋だなんて甘酸っぱくてむずがゆい言葉は似合わないだろうけど、それでも彼のことが好きなのだからもう仕方ない。 報告が終わったあとの楽しみを思い笑みで顔を綻ばせながら、コンに見送られ窓から飛び出した。 |