『――――なに言ってんの?』
 上手く笑えているだろうか。嘲るように、蔑むように。ゆるりと目を眇めて唇が弧を描く。
 どうか気がつかないで欲しい。
 この嘲りが、蔑みが、どこに向けられてるかなんて。気付かないで欲しい。
 仕事には誇りを持ってやっている。職業に貴賎はないのだと、昔大切な人に教えられた。だから魂が、誇りがあればどんな仕事でも同じなのだと。そう思っている。

 それでも、アイツと比べたら。
 自分の仕事はアイツを汚してしまいそうで――――怖くなった。
 ああまったく、出逢いたくなどなかった。出逢わなければこんな想いを抱くことも無かったのに。
 だからもう、二度と会いに来てくれるなと。そう思いながら口を開けた。

『風俗嬢に惚れるだなんて、アンタ馬鹿だねぇ。所詮金の関係だよ? アンタが客じゃなけりゃ、俺はアンタのとこ来るわけねェんだから』
 どうか、もう来ないで欲しい。
 二人の間にある壁を、これ以上意識させないでほしい。どうやったって乗り越えられないだろう壁。打ち壊すことも疲れて、面倒で。それならばもう、忘れたいのだから――――。



The isolated miniature garden,
I met with fate





「銀ちゃん指名入ったよー」

 聞こえた受付の声に、吸っていた煙草を灰皿に押し付ける。気だるく濁るだろう瞳を鏡に映すとそっとため息が漏れた。疲労が、いや隠し切れない空虚が滲んでいる。……それでも、この道を選んだのは自分だ。
 軽く頭を振って気を取り直すと、努めて明るい調子で声をあげた。
「おー。だれ? 会員? 新規? それとも本指名?」
「土方さん!」
「ッ、」
 出る支度をしながら問いかければ、返ってきた名前に化粧を直す指が、止まる。
「ここ最近ご無沙汰だったねー。前はあれだけ通ってきてたのに。……他の店にでも行ってたかな?」
「……あの人いちおー公務員だしィ? 忙しかったんじゃねェの」
 揶揄するように、笑いながら言う受付のその声も上手く耳に入ってこない。
 当然だ。彼の足が遠のいていたのは――――自分のせいなのだから。




 ホテルに入って、部屋の前に立つと一度深呼吸をした。
 どくどくと、動悸が激しく脈打つ。じっとりと嫌な汗も流れ出て、手に握り締めた伝票と道具が嫌に重かった。
 入って、いつも通りに出来るだろうか? あっちは客で、こっちはそこらへんにいる風俗嬢。ただそれだけの関係。そう、それだけの関係だったのに。

『――――俺の女になれよ』

 首を横に振ったのは自分。
 だけれど、後悔しているのも自分。
 そして、今こうしてまた会えるのを嬉しく感じているのも――――自分。

 軽くチャイムを鳴らせば、安っぽい音が響く。
 ホテルの薄壁のせいでスリッパが近付いてくる音が聞こえて息を呑んだ。初めて仕事をした時よりも緊張するなんて、笑える。
 カチャン、と鍵が回って覗いた黒髪に胸が詰まるような愛しさを感じるなんて、もう駄目だ。
「……入れ」
 切れ長の鋭い眼差しが自分を見る。ふわりと香った煙草の匂い。
 それが恋しくて、自分で吸う銘柄もそれに変えてしまった。
 本当はこんなにも、近付きたくて仕方がないのに。

 部屋に入ると、彼は何も言わずにベッドに座った。煙草を口に銜えて火を点ける。ふぅ、と煙を吐き出すと、彼は自分の横を叩いて自分が座るのを促した。
 今まで通りの、あの言葉なんて無かったような、そんな態度。
 それに安堵しているのか、それとも悲嘆を覚えているのか、自分でもよく解らない。  タイマーだけはセットしてその他大勢に向けるものと同じ、いつも通りの完璧な微笑みを浮かべた。
「久しぶりじゃん多串くん。他の店に浮気でもしてた?」
「……忙しかったんだよ」
「そ。まぁ、常連のあんたが来てくれないと俺もとんと仕事がねェからな。来てくれてよかった」
 あくまで、客と店員なのだ。
 そこにあるのは金銭で割り切られた性欲の捌け口。ただそれだけの関係。
 それを言外に提示しながら、からかうように笑えば存外に真剣な目が帰ってきて。
 心臓が大きく、鼓動を打った。
「――――銀」
「な、なに? ヤるならさっさと始めねェとタイマー動いて……」
「お前のとこの家族と会ってきた」
「……え?」
 家族といえば、二人しか思いつかない。
 血の繋がらない、寄せ集めの家族だけれど、でも、大切な。
 でも、それが誰かなんて教えたこと無かったはず――――。
「悪いが調べさせてもらった。お前、アイツら養うためにここで働いてんだろ。……アイツら、知ってたぜ。俺が聞く前から切り出してきやがった」
「…………うそ、だろ……」

 言ってなかった。

 子供を子供のままでいさせてやりたくて、今までやってたキャバクラをやめてヘルスに行ったなんて知らせなかった。キャバクラも給料は悪くねェけど、出来ればもっとちゃんとした生活をさせてやりたくて。
 ずっと隠してきてたのに、どうして。
「……一度お前が忘れ物した時に届けに行ったんだとよ。そしたら、店移ったって聞いたって言っていた」
「そん、な……」
 唇が、震える。
 アイツらには知られたくなかったのに。汚れるのにはなれてる。でも、それをアイツらが知る必要は。
 アイツらまで汚いものを見ることなんて、無かったのに――――。
「お前、仕事やめろ」
「……は?」
 いきなり何を言い出すんだ、コイツは。
「冗談だろ。今辞めたら生活費稼げなくなるじゃねぇか」
「俺が稼ぐから問題ねぇよ」
「…………は?」
 何だかさっきから同じ言葉しか言ってない。というか。
「お前何言ってんの?」
「お前ら三人養うぐらいどうってことねェ」
「いやいやそういうことじゃねェだろ!? 頭大丈夫か!?」
 あり得ない。あり得なさすぎる。
「バッカじゃねぇの!? 俺は前にもいったけどテメェと客以外の関係になるつもりはねーんだよ。大体、なに勝手にアイツらのとこまで押し掛けて……!」
「あんな泣きそうな目ェして断られても、フラれた気しねェんだよ」
「っ!?」
「お前、笑いながら俺を口ではバカにしやがったけど、泣きそうな目してたぜ?」

 気付いてなかったろ?

「う、そだ……」
「嘘じゃねェよ。あん時決めたんだからな」

 ――――ゼッテェ幸せにしてやるって。

「……お前、バカだろ……」
「バカなのはテメェだろ。俺が伊達や酔狂であんなこと言ったと思ってたのかよ」
「……それは、」
 逆だ。本気なのは解ってた。だからこそ頷けなかった。
 相手は、土方は警察のエリートで。
 だからこんな自分が傍にいることを、こんなに汚れている自分がいてはいけないと、そう思って。
「大方、テメェは自分が汚れてるだとか風俗嬢ってこと気にしてんだろうけどな。そんなの俺にとっちゃ些細なことなんだよ」
 クッと喉奥で男が笑う。
 馬鹿だ。本当の馬鹿だ、コイツ。

「体張って家族守ろうとしてた女を、汚ぇなんて思わねェよ」

 ああもう。
 本当に、あり得ない。

 肩を引き寄せられて、胸元に抱き締められる。
 煙草の匂い。あの日から焦がれ続けた、愛しい薫り。
 熱いものが喉までこみ上げてきてきて苦しい。じわりと滲む喜びに涙腺が緩む。
 でも、意地でも涙は見せたくなくて歯を食いしばった。

「テメェが守りたいもん、きっちり最期まで守ってやるよ。一緒にな」

 その言葉にとうとう涙腺が決壊して。
 衝動のままに、初めて自分からの口付けをした。


「……返品不可だからな」
「誰が手離すかよ、こんなイイ女」

 その言葉を聞いて――きっと今、自分は世界で一番の幸せ者だろう、と笑った。


“Do not you find happiness?”