それはまるで天上の調べのような。




女神の歌声



 “ こんなに冷たい帳の深くで 貴方は一人で眠ってる ”



「……あれ……?」

 透明に、優しく、美しく。
 流れる調べ。



 “ 祈りの歌声 淋しい野原を 小さな光が照らしてた ”




 ふと聞こえてきた美しい歌声に、アレンはぴたりと歩みを止めた。

 現在いる高等部に続く渡り廊下には、彼女以外の姿はない。
 今の時間帯だとほとんどの生徒は下校しているか、まだ部活をやっているかだ。しかし、今日は合唱部は活動していないはずである。
 それならば聞こえてくるのはどこからなのだろうか。
 まるで誘われるように、アレンはその歌声を追っていった。


 “ 貴方の夢を見てた 子供のように笑ってた
   懐かしくまだ遠く それは未来の約束

   いつか緑の朝に いつか辿り着けると
   冬枯れたこの空を 信じ続けるから

   Filed of hope………… ”



 歌声を探して辿り着いたのは音楽室だった。
 耳をドアに近づければ、中からはどこか聞き覚えのある歌声がはっきりと聞こえてくる。
 しかしその歌声をもつ人物は今ここにはいるはずがない。
 不思議な事態に首を傾げながら、アレンはそっと扉の前に立った。

「……ラクス先輩?」
「あら? アレンさんじゃありませんか」
「あ、すみません。お邪魔してしまって……」
「いいですのよ、アレンさんと会えたことの方が嬉しいですわ」
「あ、ありがとうございます」
 音楽室中央に作られた広い円状の壇の中心にラクスは立っていた。その様子を見る限り、きっと練習をしていたのだろう。彼女は合唱部のトップなのだから。それなのに自分のせいで中断させてしまい、アレンは申し訳ない気持ちになる。
 少し曇ったアレンの表情を見やり、気持ちを察したラクスは微笑んで彼女の手をとった。

「……そうだ、丁度いいですわ。私、アレンさんの歌声を一度聞いてみたいと思っていましたの。一曲歌って下さいませんか?」
「えっ!? 僕がですかっ!?」
「えぇ。……駄目ですか?」
 ラクスの突然の突拍子もないお願いにアレンはぎょっとして目を丸くした。別に自分は合唱部なわけでもないし、何か音楽をやっていたわけでもない。やっていたことといえば、時折エドやリナリーにせがまれて聖歌を口ずさんだくらいである。今までいた場所が場所なので、その類は多少得意なのだ。
 かといって、別に人に披露できるほどのものではない。それなのに何故歌わなければならないのだろうか。
 しかし、いかにも残念そうな目で見つめられると反論出来なくなるのも事実で。それが自分の尊敬する先輩なら尚更だ。
 アレンは苦笑してそれを承諾した。
「じゃぁ少しここでお待ち下さいな。すぐ戻って来ますから。」
 アレンの返答に喜んだラクスは一旦ミキサールームに入っていった。
 照明が青から白へと変わり、中央に立ったアレンを照らす。
「これでいいですわ。さ、どうぞ?」
 まるで舞台のようなセッティングをされて少々腰が引ける。
 しかし、出てきたラクスに促され、照れるように笑いながらアレンは小さく息を吸った。

 ――その唇から流れるのは、救いを求めた子羊の唄。





“ Pie Jesu, qui tollis peccata mundi
   dona eis requiem.

  Agnus Dei, qui tollis peccata mundi
    dond eis requiem sempiternam. ”






 高く、透き通るような歌声が部屋に優しく響いていく。白い髪がさらりとこぼれ、銀灰色の瞳がどこか遠くを見つめる様は酷く美しく、そしてどこか儚く見えた。
 空気を震わせその歌声は遠くまで伸びていく。反響するその声に、くすりとラクスは満足げな笑みを浮かべていた。

「……素晴らしいですわ! 惚れ惚れしましたわ、アレンさんの歌声!」
 歌が終わり、拍手しながら珍しく興奮気味に近寄ってきたラクスにアレンは苦笑する。
「そんな、ラクス先輩に比べたら僕の歌なんて……」
「そんなことありませんわ。とっても綺麗で素敵でしたもの。……来年は合唱部に入りませんこと?」
「あはは、考えておきます。……あ、そういえば神田はまだ生徒会室にいますか?」
「神田先輩なら生徒会室にいらっしゃいますわ。……お迎え、ですか?」
 高等部生徒会副会長でもあり、目の前の少女の恋人の名に悪戯っぽくラクスが微笑み彼女に問う。
 その言葉にアレンは頬を赤く染めた。
「ち、違いますよっ! ただ、今日はいつ終わるのかなって……」
「もうそろそろ全部終了した筈ですわ。アスランが必死で書類をまとめていましたし」
「そうですか……」

 その言葉にあれ?とアレンは首を傾げた。
 今日も高等部生徒会は忙しいらしい。だが、しかし。目の前にいるたおやかな女性は。
 感じた疑問を恐る恐るアレンは口に出してみた。

「……あの、ラクス先輩」
「はい?」
「……先輩は、どうしてここにいらっしゃったんですか?」
「…………息抜き、ですわv」

 つまりはサボりであったことが判明し、アレンはにこやかに微笑む目の前の先輩はやはり強者だ、と再認識したのであった。








「……ラクスッ! この忙しい時にどこをほっつき歩いていたんですかっ!?」
「ほっつき歩くなんて、人聞きの悪いことをおっしゃらないで下さいな。せっかくお姫様をお連れしましたのに」
「お姫様?」
「こっ、こんにちは……」
「あぁ、アレン君か」
「なにぃっ!?」

 バンッ!と書類がうず高く詰まれた奥の机から、けたたましい音が聞こえた。ガタリと椅子を鳴らして立ち上がったのは長身の黒い影。
 それにひよのは僅かに顔をしかめた。

「神田先輩。そういう立ち上がり方はしないで下さいって、いつも言ってるじゃないですか。また椅子壊れちゃいますよ?」
「この前この椅子が壊れたのは、どこかのおさげ娘が蹴ったからだと記憶しているんだが」
「そういう事は覚えておかなくていいんですよ」
「どういう理屈だ……」

 爽やかな笑みで都合のいいことを言い切ったひよのに、アスランは制作途中の書類から目を離さずため息をつく。
 そんな空気が充満し始めた部屋にアレンは困ったように苦笑し、ラクスを見やった。

「えっと、あの……やっぱりお邪魔でしたよね?」
「いえいえそんなことありませんよっ!」
「そうですわ! アレンさんとは滅多にお会いすることが出来ないんですもの。ゆっくりお話したいですしv」

 困ったような笑みを浮かべるアレンを、高等部生徒会最凶コンビは笑顔でソファーに座らせる。
 ひよのが備え付けの小さなダイニングから、紅茶やらポットやらお菓子やらを持ってテーブルに置き、小さなお茶会セットが広げられた。

「……俺にもくれ」
「あら、先輩いいんですの?」
「あとはそこのメカオタクの作った書類に会長が判子を押せばいいだけだ」

 アレンの横に腰を下ろし、神田はちら、とアスランに目をやる。
 その言いようにアレンは苦笑した。

「相変わらず代名詞なんですね、人の名前呼ばずに」
「本当に。唯一名前で呼ぶのはパルス先輩とラビ先輩、それに昔からのお知り合いくらいなものなんですから。私のこともおさげ娘ですし」
「私のこともピンク頭とか歌唄いだとかですものね」
「あと、エドワードさんの時も。豆娘とか言って」
「あの時壊した講堂の後始末が大変でしたわね」

 錬金術VSイノセンス。
 あれはちょっと怖かった。

 あの時を思い出してアスランは遠い目をする。何せ、後始末の発注やら書類などの制作は全て自分達にまかされたのだ。二日間家に帰れずここのソファーで夜を明かしたのは忘れられない。
しかしあの騒動の発端は確かここにいる最凶少女二人組+某中国人妹だった筈だが……もはや何も言うまい。
目の前の書類に意識を戻しつつアスランはため息をついた。

「……そういえば副会長。お聞かせしたいものがございますの」
「……聞かせたいもの?」

 どこか真剣な口調でわざわざ“副会長”と役職名を告げてくるラクスに神田は彼女に目を向ける。
 何だ? と視線で促す神田に微笑んで、ラクスはテーブルに小型のレコーダーを置いた。
 再生ボタンを押し流れてきたものに、皆が目を瞬かせる。唯一これが何かを悟ったアレンは真っ赤になって騒ぎ始めた。

「ラ、ラクス先輩っ!」
「少しお静かに、アレンさん♪」

 何かを察知したひよのが素早くアレンの背後に回り込み、口を塞ぐ。
 赤くなったり青くなったりするアレンの横で、レコーダーから流れ出る声に耳を傾けていた神田は、はっとしてラクスを見た。



 『…… qui tollis peccata mundi……
  dona eis requiem……

  Agnus Dei, qui tollis peccata mundi……
  dond eis requiem sempiternam…… 』



「これは……」
「…………」

 真っ赤になったアレンとレコーダーを見て神田は目を瞬かせた。
 暫しその場の皆で唄に聞きいっていると直ぐに歌は終わる。
 ふふふ、と微笑みラクスはレコーダーから小型ディスクを抜き取った。

「先程歌って頂きましたの。前から素敵な声をしていらっしゃるとは思っていましたけど、やっぱり素敵でしたわv」
「ラクス先輩……」
「本当に素敵な声ですね! これならいけそうですよ、神田先輩!」
「あぁ……」
「へ?」

 渋々ため息をつく神田に、ひよのは喜々として謎の台詞を吐く。
 その言葉にアレンは? マークを頭上で点滅させた。

「あの、いけそうって……?」
「新入生歓迎会ですよー。今年の目玉はラクスさんとニコルくん、鳴海さんの音楽会だったんですけどもう一人欲しかったところなんです。そうしたらさっきラクスさんが『今から候補を一人連れてきますわ』って……」
「えぇっっ!?」

 いつの間にそんなことになっていたのか。
 告げられた内容にアレンは驚きを隠せずに口を開けて呆然としてしまった。

「さぁそうと決まれば早速ドレスの発注ですねっ!」
「えぇvカクテルドレスにしましょうか、ロングドレスにしましょうか?」
「色も悩みますねー。アレンさんには優しいパステル調の色が似合うでしょうしv」
「黒でもいいですわね。ゴシック調なのとか」
「白いレースをふんだんにあしらいましょうね!」
「マーメイドドレスも捨てがたいですし……」
「ミニ丈のドレスもいいですよ!」

 きゃいきゃいと交わされる会話にアレンは意識を飛ばしそうになる。
 なんだってこんなことに。
 自分はただ一曲歌っただけ、それだけなのだ。それがどこをどうやって新入生歓迎会なぞでドレスを着て歌うはめになるのか。
 唯でさえ今年から中等部副会長になぞなるというのに。

 ちょっと(?)ばかし混乱しながらアレンは横にいた神田に寄りかかった。倒れてきたアレンを神田も優しく抱きとめる。
 この二人を止められないことは自分もよーく知っている。
 最強と最凶と最恐と最脅を足して二で割ったような二人組。
 さらにこれにリナリーが加わればまさしく最狂のトリオと化すのだ。


 勝てるわけがない。


 これから当分二人の着せかえ人形になるであろうアレンの頭を撫で、神田は深い深いため息をついたのであった。






 ──その新入生歓迎会で新たな出会いがあることを、まだ誰も知らない。




“その歌声は運命の輪の結び手”