紅い鳥ではなく、天高く昇る龍に。

「……あれは、なんですか？」
「ん？　どれだ？」

　おうおずとかけられた問いかけに、新一は首を傾げつつ白い指が指し示すものを見やった。
　ひらひらと青空にはためくもの。ああ、と笑って小さな頭を撫でた。日本に来てまだ日が浅い彼は確かに解らないだろう。最近は日本人ですら滅多に外に出していない。精々スーパーで売られている小型を飾るぐらいなのではないか。とはいえ、その存在があるからこそ今日の買い物は工藤家のキッチンの番人ではなく、自分達が行くことになったのだが。

「あれは……」

　表情は淡々としていて何気なく装いつつも、紫色の瞳はキラキラと輝いている。あえてそこには触れることをせずに新一は彼の疑問に答えた。

「まだかなー……まだかな新一……」
「気になるなら行けば良かったんじゃねーの？」
「今日この日に外に出るなんて自殺行為にすぎないっつーの！！　ああ思い出すだけでもおぞましい……！！」

　そう言ってクッションに突っ伏す快斗を見やり、朱雀は呆れたように目を眇めた。
　新一達が買い物に出掛けてから五分おきには紡がれる言葉に、もはや溜息しか出ない。自分だって我慢しているのに、大人である彼がここまで駄々をこねているといい加減馬鹿馬鹿しくなってくる。そのあまりのうっとおしさに、やっぱり着いて行くべきだったと数十分前誘いを断った自分を悔やんだ。
　テレビも今の時間は奥様向けのワイドショーばかりで、面白いものはやっていない。休日なのでバラエティもやってはいるのだけれど、再放送ばっかりだ。一度見ているものを見る気はしない。かといって一人でＤＶＤを見るのも味気ない。
　この家には山と言うほど蔵書があるのだが、如何せん体育会系の朱雀には少々敷居が高かった。唯一の遊び相手は最愛の恋人の名前しか言わないので選択外である。いっそのこと途中まで迎えに行ってしまおうかと考え始めた時、玄関が開く音がして朱雀は顔を輝かせた。

「あ、帰って……」
「しんいちーｖｖ　おかえ……ぎゃあああああああああああ！！！！」

　物凄い速さで脇を駆け抜けリビングから飛び出していった快斗に呆気にとられつつも後を追うと、聞こえてきた大音声の悲鳴にぎょっとした。そのあとに新一の怒鳴り声が聞こえ何が起きたのかと慌てて玄関に向かうと、困ったように立ちすくむ姿を見つけ駆け寄った。

「何だよ今の悲鳴……」
「あ、スザク。それが……」

　困ったように上を見上げる相手にならって見やれば、必死に新一に抱きつく快斗の姿があった。うざったそうに引き剥がしにかかるも全く動じない快斗に、新一は深々と溜息をついてぽかりと頭を殴った。

「いい加減離れろ！　家に入れねぇだろうが！！」
「うううう……新ちゃんのばかぁ……！」

　ぐすぐすとどうやら本気で泣いているらしい快斗にスザクは首を傾げる。何故なのだろうかと視線を巡らせて、ふと目に止まった原因だろうそれに目を瞬かせた。

「……ルルーシュ。それ……」
「あ、商店街でもらったんだ。鯉のぼり、っていうんだろう？」

　ひらひらと赤青黒の三匹の魚が棒にくくりつけられている。つまりはこれか、と心底呆れてスザクは快斗を見上げてぼそりと呟いた。

「かっこわる……」
「幾ら何を言われても嫌いなものは嫌いなの――っ！！」
「解った！　解ったから耳元で大声出すな！　そして離れろ！！」
「酷いよ新一……これじゃあ何のために買い物行ってもらったか解らないじゃん……」
「ルルーシュに日本を学んでもらういい機会だろ。それぐらい我慢しろ。今日は何てったってこどもの日なんだからな」
「……俺だって子供……」
「日本語に訳すな」

　ほら持て重い、とスーパーのビニール袋を快斗へ押し付けると新一はスザクとルルーシュをリビングへと促した。息をついてソファーに座り込んだ新一の隣にちょこん、とルルーシュが座りその横にスザクが座る。しげしげと鯉のぼりを見つめているルルーシュに朱雀は少しムカつきながらもぼそりと呟いた。

「……鯉って、滝を昇ると竜になるんだぜ」
「え？　ドラゴン？」
「あー、たぶんルルーシュの考えてる竜とは違うな。スザクの言ってるのは中国とかでよく見られる蛇みたいなほう。羽があって火を噴く、イギリスのドラゴンとは違うんだ」
「そうなん、です、か……」
「元は中国の故事でな。黄河の急流にある竜門と呼ばれる滝を多くの魚が登ろうとしたんだけど、登りきって竜に成ることができたのは鯉だけだったんだ。そのことに因んで鯉の滝登りが立身出世の象徴になり、男の子供の出世を願ってこの日にあげるようになったんだ。スザク、よく知ってたな」
「俺ん家にも鯉のぼりあるから。昔母さんが教えてくれた」
「だけど偉いなー」

　褒めるように撫でられる頭が少しくすぐったくて、朱雀は少し笑った。へぇ……と感心したように鯉のぼりを見つめるルルーシュは可愛らしく、横顔を見つめて頬が緩む。それと比べて、と新一は後方のキッチンを見やり深々と溜息をついた。

「アイツは本当にこの季節は使えねぇな……」
「あの、新一さん。これ部屋に置いてきますね。快斗さんが来れませんし」
「いい、いい。ほっとけアイツのことは」
「新ちゃんヒドイー！！」

　キッチンから聞こえてくる悲痛な叫びにルルーシュはおろおろと視線をさ迷わせる。最終的に朱雀に行き着く瞳は相変わらず綺麗で、笑って朱雀はその手をとって立ち上がった。

「外に泳がせに行こうぜ！　鯉のぼりだって家の中より外のほうがいいに決まってる！」
「そういうものなのかい？」
「そういうもんだ！　新一兄ちゃん、いいよな？」
「おー、言って来い。くれぐれもはしゃぎすぎて怪我すんじゃねーぞー？」
「わかってる！」
「じゃあ、行ってきます」

　ひらひらと笑みを浮かべながら手を振る新一に軽く会釈してから、ルルーシュは繋がれた朱雀の手を握り締めた。握り返される同じくらいの手に、朱雀は自然と笑みが浮かぶのを感じる。

　鯉は滝を登りきると竜になり、空へと昇る。
　ただの魚が神の化身になるのは確かに物凄い出世だ。それを願う親の気持ちが具現化した行事。
　……親の愛情を朱雀は知っている。新一も快斗も、よく知っているだろう。でも、彼には。ルルーシュにはそれの片方しか解らない。そしてそれすらも彼は失ってしまっている。
　だからこそ、この行事を好きになって欲しいと思う。子を思う親の気持ちは、古来より確かに存在するのだと。例えばルルーシュの父のように、愛情をもたなかった父親がいるとしても、それが全てではないと知って欲しかった。きっとこれを与えた新一もそれは同じだ。快斗も文句は言うけれど、決して捨てろだとかどこかに置いてこいとは言わなかった。それはきっとルルーシュのことを考えて。

　いつか、いつか。朱雀は竜になりたいと思う。
　今は小さな子供でも、もっと大人になって今手を繋いでいる大切な存在を守れるように。愛しいこの手を離さないですむように。全てを守ってあげられるように、強く。

　その夢が叶うのは、十数年後。
　空にたなびく鯉のぼりを見て、笑いあう二人がいるのは未来のお話。

“青空に浮かぶのは未来への誓い”