恋だとか愛だとか。……幸せ、とか。 自分とは無縁のものだと思っていたけれど。 案外身近にあるものだって、最近気が付いた───―
Temperature of happiness 「たっだいまー。報告書提出に来たよん」 「あ、お帰りなさいラビ。大丈夫だった?」 「レベル1だったからヨユーヨユー。……っつーかコムイ、死んでんの?」 「さっき少し仮眠するって。預かっておくからゆっくり休んでね」 「へーい。……時に、アイツは?」 「アイツって……あぁ、今は確か談話室に」 「ありがとっ!」 「あっ、ラビまだ……って、もう!」 風のように駆けていったラビの後ろ姿を見つめ、リナリーはため息と共に苦笑を浮かべた。 最近は帰ってきたと思ったら慌ただしく去っていく。 毎回同じ人物の居場所を聞いてからここを飛び出していく姿はすっかり見慣れた光景だ。 大方、例に漏れずこの報告書も大雑把に書かれているに違いない。書類に目を通し、思った通りの内容に彼女は呆れたように───しかしどこか楽しそうに微笑む。 「……楽しそうだね」 「あら、兄さん起きたの?」 「リナリーが膝枕してくれたらもっと寝られるよ」 「寝言は寝てる時に言ってね?」 「ヒドイ! ヒドイよリナリー!!」 ソファの上から起き上がりだだをこねる子供のような仕草をする兄にリナリーは苦笑した。 持っていた書類を彼へと渡し、兄の座るソファーの向かい側へ腰を降ろす。 その一連の動作を眺めてからコムイは書類へと目を通した。そして先程の彼女のように苦笑する。 ただそれは、とても優しい苦笑だった。 「ね、酷いでしょ?」 「うん、酷いね」 そう言ってくすくすと二人は微笑した。 彼にしては珍しい、けれど最近は当たり前のようになってきている雑な字で書かれた書類。 汽車の中で急いで書いたものだろう。全ては、今彼の向かっている部屋にいる少年の為に。 『今、丁度帰ってきているのよ』 そんなことを少し零したくらいで、本当なら三日かかる道程を一日で帰ってきた彼に呆れもするけれどそれ以上に嬉しい。 彼の大切なものは少ない。命を賭けた戦いに赴くエクソシストに、そしてブックマンに大切なものは必要ないのかもしれないけれど。 でも、彼は見つけたようだから。 「上手くいくといいんだけれど」 「だね」 嬉しそうな声が室内に響いた。 談話室の前まで駆けてきて、ラビは扉の前で一度立ち止まるとゆっくりと息を整える。 どうせなら好きな子の前ではカッコつけたいのが男の性だ。 だんだん落ち着いてきた呼吸によし、と呟いてからラビは盛大に大きな音を立てて扉を開けた。 「あーっ!! つっかれたさーっ!」 「うわっ!?」 入ってすぐ、近くのソファからちょこりと覗く白い頭を見つけた。 びくっと震えた体が恐る恐る後ろを向き、入ってきた自分をその灰色の瞳に映す。すると、誰だか解りほっとしたように優しい微笑みを浮かべ少年──アレンはラビへと笑いかけた。 「お帰りなさいラビ。早かったんですね」 「あれ、アレン? ただいまさーっ!」 さも偶然だといわんばかりの様子で挨拶を交わしながら近づき、ソファごしにアレンの体を抱き締めてその柔らかな髪に顔を埋めた。ふわりと香るどこか甘い匂いに女の子のようだと思いつつ、ラビはその細い肢体を堪能する。 くすくすと暖かさを含ませた優しい微笑みが胸の辺りで聞こえた。 「どうしました? 痛いですよ、ラビ」 「あー癒されるー。アレンの体って温いし」 「僕は湯たんぽ代わりですか?」 「チガウとも言いきれないようだけど近くないようで近かったりしたりするかも?」 「結局どっちなんですか」 言葉遊びのようなラビの発言に可笑しそうに笑うその顔を見下ろして、ラビはじわじわと甘く温かいものが胸に染み入るのを感じた。 その穏やかな衝動に身を任せ、ラビはアレンのまろく白い頬に口付ける。 「うわっ、ちょっ、ラビッ?」 「やらかいさー」 へにゃっとだらしなく頬を緩ませて何度も顔に口付けた。 喰むように、宥めるように愛おしげに口付けるその仕草にアレンはくすぐったそうに身をよじらせる。 「もー。ラビ、甘えん坊みたいですよ?」 「いいじゃん、甘えさせてくれても」 「せめてちゃんと座らせて下さい。ちょっとこの状態は痛いです」 「あ、悪い」 ソファ越しだったためにアレンは微妙に腰を浮かせる体勢になってしまっていた。それに軽く謝り体を離しアレンを座らせる。ラビはひょいっとソファを飛び越えてその横に腰を下ろした。 そしてすぐに隣にいる彼の体を再度抱き締め直し頬摺りをすると、アレンは苦笑を浮かべ自分を抱き締める腕を撫でる。 「まだですか?」 「んーもーちょっと」 「ちょっと?」 「充電が終わるまで」 「何の」 「アレンメーター」 「何ですかそれ」 二人だけの空間はひどく甘く、そしてほんの少し切ない。 今自分が抱き締めている少年は、まさか自分が彼に会うためだけに───―このポジションにいたいがためだけに、必死で生きて帰ってきてるだなんて思ってもいないだろう。 でも、それでいいのだ。まだ当分この気持ちを告げるつもりはないし、何より彼を縛りたくない。 自分も彼も『エクソシスト』で。常に死と隣り合わせの戦いを繰り広げている自分達には、こんな感情はいらない筈なのだから。 それでも、捨てきれない。 捨てようとも思えない。 こんなにも満たされる思いがあることを知らなかった。 だから、愛しくて愛しくて───壊せない。 この位置から、抜け出すことが出来ない。 あぁ、そういえば自分がこんなにも臆病だったことも初めて知った。 暫くくっついたままでいると疲労からかだんだん睡魔が襲ってくる。 少しくらいなら眠ってもいいだろう。アレンは怒ったように言いながらも結局受けとめてくれるから。 そんなことを思いながらラビの意識は温かな闇に呑まれていった。 「……まったく。馬鹿なんですから」 自分を抱き締めたまま眠ってしまった青年をちらりと見やりながら、アレンは優しい苦笑を浮かべた。 きっと彼は気付いていないだろう。アレンが本当はラビの気持ちを知っていることに。 自分が教団にいると、任務のあと報告書を提出してから必ず一番最初に会いにくること。 近くまで走ってきて落ち着いてからアレンに近づくこと。 家族愛に似た行動に見せ掛けて、想いを隠していること。 知っているのだ。 なぜなら自分もまた、同じような想いを彼に向けているのだから。 そして、彼が何かに怯えていることも知っている。それはきっと彼の名前に関係あることで。 だから今はまだ知らないフリをする。 ただ、帰ってくる彼の居場所になるだけでいい。 甘やかして。 癒して。 救って救われて。 そしていつか、お互いの傍が居場所になればいいと。 誰ともしれない誰かに祈る。 ゆっくりと隣の体温につられるように忍び寄ってきた睡魔に、アレンは抗わずそっと目蓋を閉じる。 もう少しこのまま温かい場所で。 目が覚めたら、また戦いに赴かなければいけないから。 今はどうか、この幸せに触れさせて。
“指に伝わる温度に、幸せを知る” |