それは、雪のように白い花。 月の光を浴びて咲く、まるで幼子の無垢な心。 冬の夜の、伽草子。 雪月花 「……おー珍しい。雪月花じゃねぇか」 「へ?」 いきなり物の怪が発した言葉に、昌浩は首を傾げた。 雪月花。 それは今、目の前に咲く花のことだろうか。 「もっくん、何それ」 「お? 何だお前、この花知らないのかよ。晴明の孫のくせして」 「孫言うなっ! ……で、この花がどうかしたのか? 普通の花じゃないか」 「………そうか。普通の花というか、この幽霊花を」 「ええっ? 幽霊花?」 それは毎日恒例の夜警の最中のこと。 粗方都を周り終え、帰宅中に某かの貴族の邸の前を通りがかったところ物の怪が突然立ち止まった。邸の前には一輪の美しい花が咲いていて、それを見つけたのだろう。 特に問題もなく、邸に帰ろうかとしていたところのこの発言。これは嫌がらせなのだろうか? それとも別に他意は無いのだろうか? 正直もうそろそろ帰らなければ明日に響くのだが。 そんなことを考えながらも昌浩は目の前の花を見つめた。 白い五片の花弁。 咲いているのはたった一本だけだった。小さな花が一輪だけ咲いているというのはどこかもの悲しく見える。 満月の夜なので青灰色の影が射していて、まさにそれは雪月花の名に恥じぬ美しさであった。 「で、何でこの花が幽霊花なの?」 こんなに綺麗な花が、何故幽霊花などと言うおどろおどろしい名を持つのか。 昌浩には不思議に思えたのだが、次の瞬間物の怪はさらりと驚愕する台詞を発した。 「この花は人の魂が具現化したもんだ。見鬼の才を持っていないと見えない」 「……は?」 人の魂? 唖然として、昌浩は白い花を見つめた。 およそその花は人の魂などには見えない。透けているわけでもないし、光っているわけでもない。ただ本当にそこに生えているだけにしか見えないのだ。これが本物の花ではないとは。 驚きの目でじっと花を見つめる昌浩に、物の怪が講釈をたれる。 「雪月花っつーのはなぁ、次の満月までに生まれる子供の魂なんだよ。だいたいがこうやって邸の門辺りに咲く。近い内にこの家には子供が生まれるってことだ。花の美しさは魂の美しさでもあるらしいぞ」 「へー……そうなんだ。驚かさないでよもっくん。俺はてっきり人喰い花みたいなものかと思ったじゃんか」 「……たまに思うがお前の想像は空恐ろしいものがあるな」 「え?」 全く解っていないらしい昌浩に、物の怪はため息をついた。 やはり晴明の孫だ。血は争えない。 興味を無くしたように花から離れ、尾をひょんひょんと振って歩きだした物の怪の後ろを名残惜しげに花を振り返りながら昌浩はついていく。 するとしばらく歩いてから、不意に物の怪を抱き上げた。 「おっ? どうした昌浩。」 「んー何となく。……ねぇもっくん。俺が生まれた時も、あの花って咲いてたのかなぁ?」 「そりゃー咲いてただろうよ。あの花は子供が生まれる前兆なんだからな」 「…………」 「…………どうした?」 黙ってしまった昌浩に物の怪は不思議そうに首を傾げた。ぐるりと首を巡らせて昌浩の顔を見やる。 その視線を受けて昌浩はその場に立ち止まった。暫く口ごもっていた昌浩だったが物の怪がじっと見つめるのに降参したのか、視線を彷徨わせてからためらいがちに口を開く。 少し迷ってから紡ぎ出された言葉は、ほんの少し弱弱しかった。 「……俺が生まれた時も、あんなに綺麗だったのかなぁ……」 純白で、汚れのない新雪のような。 そんな美しさを自分は持っていたのだろうか。 どこかもの悲しげな昌浩の呟きに、物の怪は瞳を瞬かせて。 一瞬後に暖かな眼差しで含めるように答えた。 「…………綺麗だったろうよ。人は皆、生まれてくる時は真っ白なんだ。お前も、彰子も、晴明も、みーんな真っ白い花だったんだよ」 白く咲き誇る、花。 まるで闇を裂く光のような美しい花。 生まれる時は皆、白く美しい心をもって生まれてくるから。 「……そっか。ならいいや。もっくんと同じだよね?」 「あぁ?」 「だってもっくんの毛並みはこんなに白くて綺麗じゃないか。もっくんも、あの花みたいに生まれてきたんだろうねぇ……」 その言葉に物の怪は、はっと目を瞠る。 上げた視線の先には何者にも変えがたい、大切なもの。 まるで泣き出しそうな、切ない微笑を浮かべ物の怪はその夕焼け色の瞳を閉じた。 この身はきっと、あの花のように白くはなくて。 血で染まった咎人の色をしている筈なのに。 お前だけは。 俺の罪を知ってからも、変わらずこの身に光をくれる。 そう、俺は知っている。 知っているんだ。 お前の花の色を。 「……おぉ紅蓮。見てみい、花が咲いとるぞ」 「……花?」 突如かけられた晴明の言葉に、紅蓮は首を傾げた。 「…………雪月花じゃないか。花じゃないだろう」 「何を言う、立派な花じゃないか」 ふぉっふぉっと笑って晴明は邸へ顔を向けた。ここは安倍邸の前だ。門の傍に咲く花は清明の三番目の孫のものだろう。久しぶりに呼び出されたものの、嫌なものを見てしまったと紅蓮は眉を潜めた。解ってはいるのだ。今この邸には新たな命を身籠った露樹がいるのだから。子が生まれること自体は尊ぶことだが、その子供や孫を生まれて直ぐに会わせる清明の習慣には正直辟易していた。 だから続けて呟いた晴明の言葉に、紅蓮は驚いた。 「露樹が産む子の魂だな。……きっとこの子は、立派な陰陽師になるぞ」 「……何故そんなことが解る?」 「簡単じゃよ。…………花弁が、六弁あるだろう」 はっと紅蓮はもう一度花を見つめた。 月の光に照らされて咲く花は確かに六弁あった。 ――――本来ならば五片しかない花弁が六弁あるということは――第六感が優れている証だ。 花弁の数は人の五感を表している。 六枚目は五感ではなく他の強い力を表し、そしてこの場合はきっと――――。 「…………ようやく現れたか、わしの後継が」 「晴明!?」 紅蓮は驚愕した顔で晴明の顔を見た。 しかし見つめたその先にある顔に浮かぶのは喜色だけだ。 「きっとこの子は儂の力を継いどるよ。この花がその証拠だ。…………その力故に苦しむこともあるじゃろうて。その時は紅蓮、お前が助けてやってくれな」 「……何で俺に。もっと適任なのがいるだろうが」 六合とか、勾陳とか。 苦みばしった顔で言う紅蓮にふぉっふぉっと晴明は笑う。 「いいや、お前だ。きっとこの子にはお前が必要になる。」 そして、お前にも。 きっとこの子が、この優しく悲しい神将を救ってくれる。 この花のような白さで優しく癒してくれる。 雪が降り春に溶け、すべてを流す水のように。 夜明けの、光のように。 「……っ……くん……っくん、もっくん?」 はっと物の怪は思考から浮かび上がった。 見上げるとそこには膨れっ面の昌浩の顔がある。思考に随分深く入り込んでいたことに気が付いて物の怪は苦笑した。 「もぅっ! ちゃんと聞いてた? 俺の話」 「すまん。全く何も少しも聞いていなかっ。」 「……そっか、物の怪のもっくんだから耳も遠いんだよね。何てたってものすごーく長い時を生きてるんだから、耄碌したっておかしくないもんねー?」 「…………孫」 「孫言うな! 物の怪のもっくんの分際で!」 「もっくん言うなっ! 少しどころかもの凄く頼りない半人前の孫!」 先ほどまでの少ししんみりした雰囲気はどこへやら。ぎゃおぎゃおと繰り広げ始められた舌戦を前に、隠形していた六合はそっと息をついた。 『…………いつ帰れるだろうな』 『じゃあさ、…もう、いいよ。終わり』 白い雪の中、言われた言葉。 闇に射す、一条の光。 あの時のことは忘れられない。 けして、消えることのない罪。 それでも、何度でもこの身に光は射す。 “雪月花” それは新しい命の予兆。 無垢な嬰児が生まれる前の姿。十四年前にも、咲いた花。 かってない程に美しく、清く、強い光に満ち溢れていた魂の花。 生まれたのは暁降ち。 終わらなかった夜が明け、今、白き花は光となる。 “ねがわくばいつまでも、その真白をまもれるように”
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