ルカに教えられた辺りを目指し飛んでいると雨が降り出した。
 小雨だったためにそう気にすることでもないが、かといってけぶる視界の中を探すのも効率が悪い。アルトも何処かで雨宿りをしているだろうと結論付けて、ミシェルは暫し樹の下で雨が止むのを待つと再び捜索を開始した。
 晴れ上がった空は美しい青に染まっている。
 フロンティアのドームが創っていた天気とは違い、目まぐるしく変わる自然を少しばかり疎ましく思うも、愛しいとも感じるのはこの身に流れる人の、地球の遺伝子がもたらすものなのだろうか。
 きょろきょろと水に濡れた緑を見下ろし、その視界の中であの艶やかな黒髪を捜しているとふと視界に何か映った気がして顔を上げる。そしてそこに在ったものに息を呑んだ。


 蒼穹の空と緑の大地とを繋ぐ、鮮やかな光の橋がそこにあった。


「虹か……!」
 漢字という文字で言い表せば虹の「虫」は蛇を、「工」はつらぬくという意味を指す。ミシェルの前に現れたそれは、正に天をつらぬく蛇、もしくは龍のように見えた。
 雨があがったあと、大気中には水蒸気が立ち込めている。その小さな水滴たちに陽の光が当たることで、空には七色の大きな橋が作り出される。知識としては知っていたが、初めて見た本物の、美しいそれに思わずミシェルは見惚れてしまった。
 光と水とが織り成す幻想の姿。それは光で作られた虚構だと知っているのに、こうも惹かれるのは何故なのだろうか。いや、虚構であっても幻想であっても、そこには確かな美が在る。感動がある。だからこそ人は、それに惹かれるのだ。
 その美しい光の帯に、凛とした姿が重なった。
「いけない、いけない。さっさと探してやらないとな」
 そして一緒にこの虹を見られたらいい。
 意識がアルトから逸れていたミシェルは、苦笑して視線を下へと戻す。そうやってアルトの姿を探しながらも、ふと意識は昔、姉に聞いたおとぎ話に飛んでいた。
 『虹のふもとにはね、宝物が埋まっているのよ』
 あの虹をどこまでも追い掛けて、そうするとその先には何かがあるのだろうか。宝物が眠っているだなんて、そんなおとぎ話を信じるつもりはないけれど、でも。
 気付くとまた虹に見惚れていた視線を下へと戻す。あれは光が作り出す幻想なのだから幾ら近づいたって届くことはないのだ。
 そう解っていても惹かれるのは、ミシェルがこの美に負けぬ至高の美を知っているからだろうか。
 そんなことを考えながら飛んでいると、暫らくして林が拓けた。見つけたそこは林の切れ目で、なだらかな草原が広がっていく。萌える緑の中、その中に風にたなびく長い髪が見えた。

 そしてその隣に咲き誇る、淡い薄紅の花。

「……っ!」
 緑の森にただ一本。草原との境目の拓けた場所に艶やかに咲き誇る美しい花。それはこの星にはないはずの花だった。
 そのルーツは花の隣に立つ男の血、かつて日本と呼ばれた国に咲くものだ。幹の太さを見る限り入植したわけではないことは直ぐに解る。だからこそミシェルは心底驚いて、そして目の前に広がる奇跡のようなその光景を呆然と目に焼き付けるしかなかった。
 青空と虹と花と、そして花の横に立つのは美しき女神。
 長い黒髪が風を孕んで翻る。ぴしりと一分の隙も無く立つ姿は美しく、そしてどこか儚い。それは花のもつ幻想的な空気のせいか、それとも彼こそが幻想から飛び出した存在だからだろうか。
 天を架ける鮮やかな光を見上げ、アルトは花の舞い散る中に凛として立っている。
 そしてその視線が、ふと上へと向かい――ミシェルを見た。
 琥珀色の瞳が驚きに見開かれ、それから鮮やかな微笑みが白皙の美貌を彩る。その微笑みに、ミシェルは自分が少し間違えていたことに気が付いた。

 ああそうか、地上に降りていなかったのは彼じゃなかった。ずっと中途半端に飛んでいたのは自分だった。
 彼は最初からそこに居てくれたのだ。白鳥になったわけでも空を舞う天女になったわけでもなく、大地と空を見守る春の女神はずっとそこにいたのだ。
 たったひとりの、俺のおひめさまは。

「アルト!」
「ミシェル!」
「大丈夫か? 怪我や体調が悪いとかは……」
「いや、大丈夫だ。鳥にぶつかってEXギアの調子が悪くなっただけだから」
「なら良かったけど……ったく、気をつけてくれよ。寿命が縮まったかと思ったぜ」
「悪い。探してくれて、ありがとな」
 直ぐにアルトの傍に降下していくと安堵したように彼は息をついた。無理もない。フロンティア内ならばともかく、ここはまだ調査もろくに済んでいない未知の惑星だ。
 生態系もまだ満足には解っていない状態で一人いるのは、さすがに不安だったのだろう。怪我をしているわけでも具合が悪そうなわけでもない様子にミシェルもホッと息をついた。そして傍らの樹に目を移す。その視線をアルトも追って柔らかく目を細めた。
「……なぁアルト。この樹って……」
「ああ。……桜に、似てるよな」
 アルトはそっと幹に触れて薄紅色の花を見上げた。
 形も色も、早乙女の家に生える桜とほぼ同じだ。違うところといえば本来一般的な桜であるソメイヨシノの色は紅というよりも白に近いがこの花の色は紅色に近い。ただ桜は三百種類ほどあったらしいというからそのどれかに似通っている可能性もある。
 ともかくとしても、いずれ調査する必要があるだろう。地球にある植物と似ているということは、新たにここに住まう人類にとって僥倖とも言える発見なのだから。
 ――あの日、死出の旅立ちをも覚悟してシェリルと共に歩んだ雪の道を思い出す。しんと静まった無人の街に立ち並ぶビルがまるで墓標のように思えて、それでも進むしかなかった。
 降りしきる雪が舞い散る花のようで。寒い中を悲愴な決意を抱き歩いたあの時と、同じように舞い散る花の下であるというのに抱く感情は異なっている。今はこんなにも心穏やかだ。
 青空と虹と、そして花と。隣には最愛の恋人。
 もしも幸せを形にするとしたならば、こんな光景になるんじゃないだろうか。
 そんな風に考えて、アルトはくすりとミシェルに笑いかけた。
「綺麗だな」
「……ああ、綺麗だ」

 咲き誇るのは花だけではない。華もまた咲き誇る。
 そして咲いた華をいつまでも傍で慈しみ、見ていたいと思う。

 だから、胸の奥にずっと凝っていた問いを、ミシェルは口にした。
「なぁ、アルト」
「ん?」
「俺と空、どっちが好き?」
「……は?」
 突然の問いにアルトは呆れたように目を丸くしてミシェルを僅かに睨んだ。その目が「何を馬鹿なことを」と言いたい事を雄弁に語っていてミシェルは苦笑する。そしてアルトは一つため息をつくとさも当たり前のように答えを口にした。

「なに変なこと言ってんだよ。お前と空を飛ぶのが好きなんだから、どっちも好きに決まってんだろ」
「っ!」

 それがどうしたと言わんばかりのアルトを見てミシェルは暫し唖然とし、それから息を吸い込むと小さく噴出した。
「なっ! 何笑ってんだテメェ!」
「いや……ごめん、お前の答えに笑ったわけじゃないんだ。なんか、自分が馬鹿らしく思えて……」
「はぁ?」
 笑うミシェルを見て怪訝な顔をするアルトにごめんごめん、とミシェルは笑いを収めて恋人の姿を見つめた。
 綺麗で可愛くて真っ直ぐで。汚したいと思っても、汚れてくれない、それどころかより一層美しくなる最愛のひと。
 返された答えは嬉しいものだけれども、それでもいつか空よりも自分を選んでくれたら、と思う。アルトは神話の戦女神のように美しいけれど、それでも彼も自分も人なのだから。
 欲望は尽きることなく溢れてくる。それは決して綺麗なものだけではない。でも、だからこそ人は誰かと共に生きたいと、自分とは違うものを愛したいと思うのだ。
 これがきっと始まりだ。全てのものが始まる春。この星に四季があるのかはまだ解らないけれども、巡る季節を共に過ごしていけたらいいとミシェルは願う。
 だからまずはその一歩をと、ミシェルはアルトへ手を差し伸べた。
「さぁ、帰ろうアルト。皆がお前の帰りを待ってるよ」
「……ああ、帰ろうミシェル」
 愛すべきあの場所へ。




「で、なんでこんな格好なんだよ……」
「何でって、EXギアで帰るのにこれ以外ないだろ?」
「姫抱きなんてしなくても他にもあるだろう!」
「いいだろ別に。今だって本当はイロイロしたいの我慢してんだからさ」
「なっ! こ、この万年発情期が!」
「アルトを見て欲情しないわけがないだろ。と、いうわけで帰ったらお仕置きも兼ねていっぱいイチャイチャしよーな?」
「ば、ばばばばばかやろうっ! するわけないだろ!」
「そういうこと言う唇は、こうだっ!」
「ちょ! みしぇ、っ、んんっ!」




“愛でられてこそ美しく咲く

     それ、すなわち華である!”