「あら、置いていかれちゃったの?」
「……シェリル」

 ふと背後からかけられた楽しげな声にミシェルは後ろを振り返って再度息を吐いた。ふふ、と笑みをもらしながらストロベリーブロンドの髪をたなびかせシェリルはミシェルに近づいてくると、空を飛ぶ一羽の鳥に目をやった。
「相変わらず飛んでばかりなのね。馬鹿と煙は高いところが好きっていうらしいけど洒落にもならないわ」
「ごもっとも」
「それで空に恋人をとられたあなたは地上でふて腐れている、ってとこかしら」
 あながち間違ってもいないシェリルの言葉にミシェルは黙秘権を行使した。だが彼女はといえばそんなミシェルの態度を気にした様子もなく更に抉るような攻撃を繰り出してくる。
「あなたと空、どっちが好きなの? って聞いたらあの子どんな反応するかしら。空って即答しなきゃいいけど」
「……それはつまり俺が選ばれるわけはないと?」
「あら、空よりも自分が好かれてる自信あるの?」
「…………悔しいけど無いね」
 肩を竦めて苦笑するミシェルを見やりシェリルはくすりと笑った。
 落ち込んでいるらしいミシェルが正直憎らしくも有る。何せ自分はこの男にすら負けているのだろうから。この男と違うところでとても大切に、愛されている自信はあるけれど、しかし比べてしまえばアルトは隣の男を選ぶに違いないのだ。
 とはいえど諦めるつもりもないから、何かあったら即座に掻っ攫う気ではいるのだけれど。そんなことを考えながらシェリルは鳥のように舞う少年を見上げた。
 天藍の空を駆ける優美な一羽の鳥。
 虚構と幻想の世界から現実へと飛び出した、奇跡のような存在。
 人が思い描く希望というものを形にしたら、あんな風になるのではないだろうか。
 昨日のように思い出せる、あの戦い。その中で蛹から蝶へ、雛から白鳥へと鮮やかに羽化した少年は圧倒的な美をその身で体現して見せた。絶望を希望へと塗り替える、そのしなやかな強さ。誰もが見惚れた一輪の華。

 それを開花させたのが誰なのか、隣の男は気付いていない。

 もちろん、アルトを飛ばせることが出来たのは自分とランカだという自負はある。彼本人が自分達を『翼』だと明言したのだから。
 二人でひとつ。一対の翼。空を駆ける彼の両翼。それは空を渇望する彼の重要なファクターだ。だからシェリルはアルトの中でもとても大切な位置にいるのだと解っている。けれど最終的に開花させるためのトリガーを引いたのは、アルトの中におけるこの男の存在なのだ。
 本当に撃墜王とはよく言ったものだ。ミシェルが戦死したとなってからのアルトの行動は、完全に恋しい男を亡くした女のそれだった。結局ミシェルはたまたま近くを通っていた軍に助け出されていたわけだけれども。
 もしあの時ミシェルが戦死したということにならずにいたとしたら。アルトが自分の中におけるミシェルの重要性に気付いていなかったとしたら。そうしたらどうなっていたのだろうか。詮無いことを考えても仕方が無いが少し悔しく思う。
 けっきょく、自分もランカもアルトの同族であって――つがいにはなれないということだろう。
 シェリルもランカも翼であって、早乙女アルトを作るものの一部となったのだ。三人で一つ。重なり合ったあの感覚、融けあった魂たち。想い、想われて自分達はあの瞬間一つになった。そして、だからこそ――もうアルトを自分だけのものにしようとは思えない。
 狂おしいまでに求め、愛し、そして全て奪い尽くしたいと願う熱がシェリルには無いのだ。今シェリルにあるのはアルトを大切に、愛しく思う気持ちであって彼の全てを自分のものにしたいと願う心はほとんどない。
 もちろん時折、自分だけを見つめていて欲しいと思う気持ちも湧き上がるものの、それも少しアルトを振り回せば満足する。自分のもつアルトへの独占欲なんてそんなものだ。それはもう、恋にはなり得なかった。シェリルが欲しかったものはあの時に手に入れてしまったのだから。
 スラムの中から見出され、妖精と呼ばれ銀河の高みに駆け上り、それでも埋まらなかった心を満たしてくれたのはランカとアルトだった。シェリル・ノームは本当の愛を知ったのだ。
 だからミシェルの抱えるような凶暴な気持ちをシェリルは持てない。それはきっとランカや当の本人であるアルトも同じだろう。アルトとシェリルはミハエルが行方不明だった時に一度契ったけれど、アルトはその後一度もそういう意味では触れてこなかった。シェリルもそれを欲しいとは思わなかった。
 あれはそう、傷の舐め合いだった。獣が傷を負った時に仲間や家族がそれを舐めて治癒するような、そんな感傷だった。それが全てだったとは思わない。確かにあの時、シェリルもアルトも温もりが必要だった。立ち上がるための何かが必要だった。
 だからその行為自体を後悔などしていない。あの瞬間、シェリルは幸福だったのだから。
 そしてその時の気持ちと今の気持ちを比べると、やはり其の時のような強い執着も恋慕も沸いてこないのだ。
 それに何より。
「……自分より美人かもしれない男を恋人にするほど酔狂じゃないのよねぇ……」
「? 何か言ったか?」
「いいえ、何も」
 まったく、アルトは美人になり過ぎた。

 隣で黙ったまま、どこか厳しい、有体に言えば腹立たしそうな表情を浮かべるシェリルにミシェルは首を傾げる。その視線の行き先に目をやって、今だ戻る気配のないお姫様に苦笑した。さすがにもう戻ってこさせなくてはいけないだろう。空を見上げると、先ほどまで澄み渡っていた空には雲が増えてきている。
 これから天気も下り坂になると言うし、さっさと宿舎に帰らなくては。隣に居るシェリルもそろそろ仕事に行く時間なのだろう。データ取りをしていたルカと共にEXギアを片付けている二人を見て、ミシェルはアルトを見上げ――そしてはっと目を瞠った。
「アルトッ!」
 何が起こったのかは解らない。だが見上げた先、優雅に空を飛んでいたはずのアルトの体がバランスを崩していた。そしてそのまま針路を変えて高度を下げていく。つまり、墜落だ。
 ざっとミシェルは顔を少し青褪めさせて舌打ちを打った。ゆっくり落ちているとはいえど何が原因なのかが解らない。機械の不調か、それともアルトの身体に何か起こったのか。
「ほんとう、手のかかる……っ!」
 アルトが落ちていることに気が付いたルカがこちらに駆け寄り、シェリルもまた顔を青褪めさせている。あのアルトが滅多なことでもない限り墜落などするわけがない。非常事態だ。
「ミシェル先輩!」
「直ぐに出る! カタパルト調節しろ!」
 一度脱いだEXギアを素早く纏う。ルカが直ぐにカタパルトを調節し、端末でアルトの落ちた位置を予測した。
「たぶん、先輩はあの林に落ちたと思います。風向きと、速度を計算すると……ざっとこの辺りかと」
「解った。雨も降ってきそうだし、とりあえずお前達は片付けておけよ。さっさと連れ帰ってくるから」
「なにかあったら連絡ください」
「ああ」
「頼んだわよ」
 ルカの隣に並んで心配そうに、けれど真剣な顔で言う少女にふとミシェルはいつかのことを思い出した。
「……一緒に行くとは言わないんだな」
 そう呟いたミシェルにシェリルは目を瞬かせてから、ああ、と得心がいった顔で頷くと華麗に笑ってみせた。

「お姫様を助けに行くのは王子様の仕事でしょう? 妖精の仕事じゃないのよ」





 しくじった。何たる失態だ。絶対に笑われる。
 脳裏に浮かぶ爽やかな笑顔とその唇から放たれるだろう嫌味を想像してアルトは拳を握り締めた。
 大方探しに来るのもあの男だろうから礼を言わなくてはならないだろう。その時も小言を言われるのではないかと考えると、沸々と何かが湧き上がってくる。それを何とか宥めて、アルトは自分の情けなさにため息をついた。
 あの時、気ままに空を飛んでいたら突然鳥が猛スピードで自分のほうへと突っ込んできたのだ。その速さに慌てて針路を変えたものの、大型だったそれにほんの少し接触したせいで操作がままならなくなってしまった。
 もっと早く気が付いていればどうにかなったのだろうかとも思うが、そこまで考えてアルトは思考するのをやめる。
 今更言ってもどうにもならないことだし、それよりも今は自分の位置をどう知らせるかが問題だ。墜落というよりも緩やかに不時着したものの、EXギアは使い物にならない。おまけに天からはしとしとと雨が降り出していて――まったく災難である。
 ひとまず避難した樹の下でアルトはEXギアを脱ぐと根元に腰を降ろした。雨はそこまで強くなく、気候も春めいて暖かいためひとまず体調の心配は大丈夫だろう。降り出して直ぐに樹の下に入ったためそう濡れてもいない。あとはミシェルが助けに来てくれるのを待つだけだ。
 そしてふと、ミシェルが探しに来るのを当然と思っている自分の思考に呆然とした。そのことを何の疑念も無く受け入れ、さらに不安すら感じていない自分に驚く。しかしそれと同時に何だか無性に照れてしまって思わず笑みを零した。

 何時からだろうか。
 すとん、と欠けていたパズルのピースが埋まるような軽やかさで、ミシェルを好きだと認めたのは。

 正確に言えば好きだった、と認めたのだ。あの時はミシェルは死んだものだと思っていたし、自分の中の『女』を少しずつ認め受け入れ始めた時だった。どうあってもアルトはアルト以外のものにはなれないし、『有人』も確かにアルトなのだ。
 男だとか女だとか、パイロットだとか役者だとか、そんなこと本当は二の次であって、今ここに生きて、走って、飛んで、怒って泣いて笑っている自分が全てだった。そんな簡単なことに気が付くまでに随分時間がかかってしまった気がする。
 そしてそれを教えてくれたのは二人の歌姫と、戦友であり親友であり、そして今では恋人の男だった。
 今だやまない雨は緑を濡らし大地を潤している。視界に映る若芽の色はどこか翡翠色の瞳を思い出させた。
 ……何時の間にこんなに好きになっていたのだろうか。自分には確かに男の欲もあったはずなのに。
 でもこの心は『有人』だけが抱えている思いではないと解っている。男である「アルト」ですらも彼に惹かれた。少しずつ少しずつ心があばかれて近づいて。気が付けばあの翡翠に囚われていた。喪失の痛みに涙すら出なかったほど、想っていた。
 一人きりの部屋は広くて寂しくて。あの軽口が聞こえないことにどれだけ悲しみと絶望を感じたかミシェルは知らないだろう。
 気付いてしまったころには失っていたなんて、まさに物語の中の出来事だ。自分が演じてきた芝居の中の出来事が、現実になってしまったことがどんなに苦しかったか、ミシェルは知らない。知らなくて、いい。
 自分の中の『有人』を目覚めさせたのはミシェルだった。
 そしてそれを受け入れたきっかけもミシェルだった。

『Show must go on』 ――お前の舞台を続けろ。

 男であっても女であっても、人が人生を舞う舞台は一つだけなのだと、彼の言葉で気付いた。


「……雨が」
 振り続けていた雨がその勢いを弱め、だんだんと止んでいくのを見てアルトはEXギアを担いだ。雨が上がったのならばここから出てもう少し広い場所へと移動しなくては。
 きっと探すのは空からだろうから、密集した林の中にいては簡単に見つけられまい。上から視認し易い場所を探して、アルトは樹の下から歩き出した。
 ずっしりと重いEXギアを担いでいくのは骨が折れる。けれども学校の備品である以上、そこらに放り捨てていくわけにもいかない。
 周囲の林を見渡しさっさと拓けた場所を探そうとして。ふと視界の端に映った色に目を瞠った。
「え……」
 まさか、そんな。
 驚きと疑いに自分の目に映ったものを訝しむも、見やった林の奥、それは確かにそこに在った。
 重たいEXギアを担ぎなおしそちらへと歩みを進める。しばらく歩いて林を抜けて――そこに広がった光景にアルトは息を呑んで見惚れた。
「……これは……」