──苛々、する。 胸の奥にこごったもの。それが訳も解らず心を浸食していくのだ。 こんな感情は、知らない。 苛立ちも切なさも痛みも、全部アイツの、せいだ──―― 「あ、神田おはようございます」 「…………」 声をかけてみるものの、一瞬だけ自分に視線を走らせると無言で黒影は去って行ってしまった。 もう少し、愛想良くしてくれても良いのに。だからと言って、笑顔で挨拶してくれとも言わないが。それはむしろ恐怖だ。 けれど、やはり冷たくされているのは何となく寂しくて──――アレンは溜息をついた。 マテールの事件後から、何だか前よりも冷たくされて気がする。 あの時、彼は見捨てると最初に言ったにも関わらず、自分を助けてくれたのだ。その後のホテルでも少し気をつかってくれていた。 だから、もしかしたら仲良くなれるかもなんて期待していたのに。 「益々酷くなってるし……」 どうすればいいんだか。 アレンはその場で、再度大きく溜息をついたのであった。 「……任務、ですか?」 「うん、君達で行ってもらうよ。いいね?」 「あ、はい」 「…………」 コムイに呼び出された先にはアレンがいて。 予想と寸分変わらない台詞に神田は思わず額を押さえた。 何だって、よりにもよってこんな時に。 未だ感じる苛々は治まらず、それどころか酷くなる一方だ。 しかもそれはアレンが他の誰かと一緒にいたり、誰かの為に傷ついたりする時のみだったりする。全てが彼絡みだということにますます腹が立つ。 でも、何より腹が立つのは、そんなことを考える自分の感情なのだ。 今も、そう。 アレンに笑いかけられるコムイが──―― 「でも本当にアレン君可愛いよね〜どう? 良かったら僕とつきあわない?」 「な、何言ってるんですかコムイさん」 「いやいや、僕はいつでも何処でも何にでも真面目だよ」 「いえ、マジメでも困るんですけど……」 「大丈夫だよアレン君! さぁ、僕の胸に飛び込んでおいで──ごげっ!?」 「……何しようとしてやがる」 「か、神田!?」 アレンを勢いづいて抱きしめようとしたコムイを、神田は六幻で容赦なく殴りつけた。 そしてそのまま彼の手をひっぱり、司令室を立ち去る。 ――──床に散らばった書類に埋もれているコムイが発見されたのはこの一時間後であった。 「──あのっ神田っ! 手! もういいですからっ!」 「…………」 ずんずんと無言のまま廊下を進んでいく神田にアレンは声をかける。 すると彼は、握りしめていた手を今気がついたかのように勢いよく振り払った。 胸が、痛い。 「……いつもヘラヘラ笑ってやがるから付け込まれんだよ。もう少し、しゃんとしやがれモヤシ」 「モヤシじゃありません、アレンです」 「てめーみたいなヤツはモヤシで十分だ」 「そんな細くありませんよ」 「うぜぇ。さっさとどっか行っちまえ、目障りなんだよお前」 「……っ!」 吐き捨てるように投げつけられた言葉にアレンは小さく息を呑んだ。しかし、彼はそれに一瞬息を詰め直ぐにチッと舌打ちをすると廊下を歩き出す。 遠ざかっていく、背中。 ――──ならばどうして。 いつもいつも、肝心な処で助けられる。 そのくせ言われる言葉はいつも冷たくて。 でも、彼は、本当は──―― 「っ、……神田っ!」 廊下に響いたアレンの声に、先を行っていた神田は暫し躊躇ってから振り向いた。アレンは振り返った彼へと困ったような、それでいて酷く優しい微笑みを向けて、そして告げる。 「神田が、どんなに僕のこと嫌いでも……僕は神田のこと、好きですから!」 貴方が僕のことを嫌いでも、その少しの優しさを嬉しいと思うから。 気紛れでも何でも、それでも助けられていることに変わりはないから。 だから、あなたのことが好きです。 彼が、目を見張った。 放った言葉に小さく息を呑む音に気づきながらも、前へ足を進めた。 嫌えばいい。 そうだ嫌われてしまえばいいのだ。そうすればあいつだってもう懐いてきたりしないだろう。こんな無愛想で冷たい男に構わなくても、あいつが好きでもっと優しい人間は幾らでもいる。そのことを考えると安堵と同時に不快な気分に襲われるのすら疎ましい。感情が複雑過ぎて、持て余す機会が多くなっていることに気付いていた。それでもその感情に名前をつけることは躊躇われた。――認めてしまえば戻れないことを解っていた。 だから、こんな自分のことなど、嫌ってしまえば。 でもどこかで何かを期待している自分がいることにも気づいている。 あぁ、もしも彼が──―― 「神田!」 自分を呼ぶまだ少し高めの声に、神田は躊躇いつつも振り返った。呼び止めた少年は強い光を放つ瞳で彼を射る。そして続いた言葉に、神田は目を見開き呆然と少年を見つめた。 そして、唐突にこの胸に宿る想いの名を理解してしまった。 「わっ!?」 突然近寄ってきたと思ったら。 引き寄せられた力強い腕に、アレンはただ驚くことしか出来なかった。見上げようとしても、胸元に抱きしめられている為顔を見ることは叶わない。 動くとそれよりも強い力で抱きしめられるので、アレンはそっと伺うように青年の名を呼んだ。 「神田?」 「……」 ──――何で、コイツは。 「……俺の負けだな」 「へ?」 くくっと喉を震わせ笑う神田にアレンはわけが解らずクエスチョンマークを顔に浮かべた。 『神田が、どんなに僕のこと嫌いでも……僕は神田のこと、好きですから!』 その言葉がこの心にどんなに響いたか、腕の中の少年は解らないだろう。けれど、それでいい。知らなくてもいいのだ。 自分でも、ワケが解らない程に。 腕に抱いたこの温もりが愛しいだなんて。 「……おい」 一度気づいてしまえば後は簡単だ。 想いのままに、告げてしまえばいい。どうせ隠すなんて真似はもう出来ないのだから。 アレンの髪をかきあげ、耳元に唇をよせる。 小さく囁かれた言葉に、少年は目を大きく開き──そして一瞬後に、花が綻ぶような微笑みを浮かべた。 この想いに、名前をつけるとするならば。 それはきっと────“恋”と呼ぶものなのだろう。 『お前のことが──』 胸を浸す幸福に微笑みながら、神田は滅多に見せぬ笑みを浮かべたのだった。
“痛みや切なさは、酷く甘いものになる” |