「っ!?」

 ぞわりと背筋を何かが這い上がる。冷や汗が毛穴から噴出し体温がどんどん急降下していく。
 突如その場に生じた気配に、男は戦慄した。
 シンの傍ら、暗い闇に胎動するものがある。それは掌の懐中時計から、徐々に濃い霧のようになって現世へと姿を現そうとしていた。

「そっちが悪ぃんだぜ? 人が急いでるのにわざわざ止めたりすっから」

 この気配をものともしない様子で、冷めた瞳を男へ向けるシンは軽い調子で呟く。そんなシンを男は信じられないものを見るかのように凝視した。サードクラスである自分すら動けぬ圧倒的な気配。体を縛るように纏わりつくそれをシンも感じているはずだった。だというのに動じない、いやまるで気にしていないかのような相手に男は驚愕の眼差しを向ける。
 その間にも霧は噴出し、闇の中で何かを形作っていく。やがて霧の中から伸びてきた黒い帯がしゅるりと固まっていた男の体へと巻きついた。

「な、なんだこれはっ!!」

 巻きついた闇色の帯は男を拘束し、ぎりぎりとその体を締め付ける。身を捩っても簡単に抜け出せそうに無いそれに、今まで余裕そうだった男が焦り出す。
 変形させた腕で帯を切ろうと必死になってもがいていると、若い男の声が耳朶を打った。

「……知らなかったのですか? 人のモノに手を出すと、ロクなことにならないと」

 ハッと男は声がしたほうに視線を向ける。すると、先程までは霧しかなかった空間に何かが、いた。

 それは、闇そのものだった。

 黒いタキシードに薄手のロングコートを羽織った全身黒づくめの格好だからではない。薄く笑みを湛える顔の右目にはモノクルがついており、精悍な顔立ちは夜の街へ出れば女性がこぞって寄ってくることだろう。濃色の茶の髪はざんばらでコートに隠れていながらもその下には引き締まった体躯を伺わせた。それだけならば普通の人間のようにも見える。
 それもこの圧倒的で、捻じ伏せられるような気配さえなければ、だが。暗い闇へと引きずり込まれるような恐怖が、そこにいるだけで感じられる。意識が境を無くし、自我が薄れ取り込まれるような、自己の存在が消し去られるような感覚が襲う。
 そして向けられる瞳は――――至高の紫。

「セカンドクラスがこんな場所にいるとは思いませんでしたね。主君に捨てられた国だなんて寂れたところに」
「っ!? まさか、その瞳はファーストクラス……っ!?」
「ご名答」

 まさに闇の権化とも呼べそうなその存在は、男の悲鳴のような声に酷く楽しそうな様子で頷いた。その横で今まで黙っていたシンがそっと小さく溜息をつく。そして哀れむような視線を男へ向けた。

「……運が、悪かったな」

 本当に運が悪い。相手も、そして自分も。

「さて、私のモノに手をだした罰としてあなたには地獄への招待状を差し上げましょう。でも、その前にすることがあるりますけど」
「……だから嫌だったんだ……」

 にこにこと至極嬉しそうな顔で笑う闇に、シンは本当に嫌そうな溜息をついた。そうしている間に腰がぐっと力強い腕で引き寄せられ二人の距離が狭まる。 迫ってくる顔を睨む眼差しに、にこりと底の見えない笑みを返すと闇は弾むような口調で問いかけた。

「最近久しぶりでしたし、どのくらい?」
「……コイツ倒す程度」
「イエス・マスター」

 嫌そうに寄せられている眉を気にせずに、闇は腕に捕らえた者の白い首筋へと顔を近づけた。何時見ても変わらぬその白さに、うっすらと笑みを口元に刻みゆっくりと口を開く。
 その口から見えるのは、鋭い牙。

 そしてその牙が、白く滑らかな陶器のような肌にぶつりと突き刺さった。

「つ……っ!」

 薄い肌を突き破って、獣のような牙は血管を傷つける。その感触に、びくりと腕に閉じ込めた体が震えるのにも容赦せず、まるで蜜を吸うように溢れた血をゆっくりと嚥下した。シンが唇を噛み締め耐えるのを見て闇は楽しげに笑い、舌で傷口をそっと舐める。まるで愛撫のようなその感覚に、息を呑んでからシンは闇をきっと睨みつけた。

「お、まえ……変な、ことすんな……っ!」
「だってちゃんと消毒しておかないと塞がらないでしょう?」
「だからって……!」

 甘く匂いたつその血は、この世の甘露ともいえる味だった。腕の中で眉を寄せて、獲物が悩ましげな表情を浮かべているのもまたいい。 抱きしめた腕に力が入り細い体躯はその身を任せてくる。
 久々に味わうそれに闇は歓喜の色を瞳へと浮かべた。
 暫くその光景を呆然と見ていた男が、徐々に驚愕に顔を歪ませる。恐怖か畏怖か、感情に支配され上擦った声が微かに唇から零れた。

「ヴァ、ヴァンパイア……ッ!」

 それは闇に生きる住人の中でも最強最悪と呼ばれる存在だった。それも、ファーストクラスのヴァンパイアなど見たことも聞いたこともほとんどない。高貴とも言える存在が、何故こんなところにいるのだ。
 懐中時計から現れ、人間を「マスター」と呼ぶ。更に飲んでいるのは、幾ら魂が綺麗であったとしても男の血だ。あんなに美味しそうに飲むなんて考えられない。何故ならヴァンパイアが好むのは、純潔なる乙女の――

「っ!?」

 不意に漂ってきた血の香りに男は愕然とした。
 この、香りは。

「まさか……ボウヤじゃなくて、嬢ちゃんか!?」
「今頃気づいたんですか、下級悪魔さん」
「イマサラだろ、ナイト」

 目を見開き叫ぶ男の声に顔を上げて、ナイトと呼ばれたヴァンパイアはあっさりと肯定した。その腕の中、一見すると美少年顔の少女は、少し息を弾ませ若干潤んだ瞳で男を見やる。
 確かに、よくよく見てみれば男性とは違い睫毛が長く肌も肌理(きめ)細やかではあるが、女性だと言われないと気づかないだろう。細身の体に羽織ったコートのせいで女性特有のまろさが隠れているのだから。

「さて、神サマにお祈りはしましたか?」

 華奢な少女の体を抱きかかえながらナイトは嗤う。その笑みに戦慄を覚えるも、体に巻きつけられた帯は堅く男を締め付け離さない。
 その様子を愉しげに見やり、ナイトはそっと少女の手を持ち上げた。

「では、ご命令を。マイ・マスター」
「……好きにしやがれ」
「御意」

 告げられた命にニヤリと笑い、彼はその手の甲へと口付けた。









「……あー眠ィ……」
「こらこら、せめてコートくらい脱ぎましょうよ」

 宿へと帰るなり、ベッドへと倒れ伏した己の主人にナイトは呆れた声を出した。うぅー、と唸りながらもぞもぞとシーツに手をつきコートを脱ぐ姿に見かねて手を出すと、ぽすりと転がって緩やかな寝息をたて始める。
 さっきまであんなに冷静に戦っていた人物には見えなくて、無防備なその姿にナイトは苦笑した。

 ――――シンとナイトは、契約で結ばれた者達だ。
 まだナイトが何故懐中時計に封印されているのか話したことは無い。いつか話すつもりだけれども、今は少し早いのだ。
 闇を背負う、美しき少女。彼女が主人であることを誇りに思う。けれど未だ幼い心にこのことは酷だろうから。

 すっぽり腕へと納まってしまう華奢な体を抱き起こして、そっと首から下がる懐中時計を外した。ベッドサイドの机に乗せて、銃などの物騒なものもそこに置くと彼女を抱えてベッドへ転がる。
 そっと抱きしめれば、幸福感が体を包んだ。

 華奢な体。甘い匂い。純潔なる乙女。

「全く……警戒してくださいよ、もっと」

 苦笑しながらモノクルを外して、すやすやと眠る彼女の額へそっと唇を寄せた。このまま眠れば、明日目覚めた時きっとこの状況にシンは大絶叫して起きることだろう。実に楽しみだ。
 くすくすと小さな微笑を零して、今は人間程度に気配を抑えたヴァンパイアは最愛の主人へそっと囁く。

「良い夢を。愛しきマイ・マスター」

 その時眠っていたはずのシンが、まるでその声が聞こえたかのように薄く微笑んだ。
 タイミングのいいそれに、驚いたようにナイトは目を瞬かせる。そっと顔を覗きこんでそれが起きていたわけではないことを知るも、ふっと嬉しそうに笑うと彼もまた睡魔に身を委ねたのであった。


 其れは、此処とは違う何処か、何時かの物語。





絡まりあう螺旋の運命は、まだ解けない。