さよなら、さよなら、さよなら。
 僕の愛したすべてのものよ。






 白い白い空間をひたすら歩いていた。何処から来たのか、何処へいくのかさえも解らずないまま彼は進んでいく。暫くすると、ふと右腕に重みがかかり視界に映った桃色に彼は笑った。
「…………久しぶりだな」
「そんなことよりも、どうして貴方まで来ちゃったの。まだ、やるべきことはあったでしょう!」
「これが俺の罰で、そしてスザクの罰だから」
「……ナナリーが可哀そうだわ」
「ナナリーには悪かったと思っているよ。悪逆皇帝の妹になってしまったし、これからの世界をスザク共々任せてしまったからな。これから大変だろう」
「そういう問題じゃないよ!」
 ぴょこん、と橙色が滑り込んできたかと思ったらそっと手が握られて苦笑した。明らかに怒っている声音だ。彼女は怒らせると結構怖い。いや、元々自分の周りにいた女性陣は皆怖い人物ばかりだったが。
「ナナちゃんはお兄様だけいればよかったって泣いてたよ。……妹をあんなに泣かせるだなんて、酷いお兄ちゃんだね」
「そうだな。……君にも、酷い兄だった」
 手を持ち上げて右側にある桃色の髪を撫でると、少女は少し眉を潜めて精一杯怖い顔を浮かべる。
「あれは事故だったんです。それに……あなたは私をちゃんと止めてくれたでしょう? きっとあのままだったらスザクに酷いことをしていました。いえ、もっとたくさんの人に酷いことをしていました。だから……止めてくれて有難う」
 微笑む少女の顔が眩しすぎて咄嗟に目を逸らす。すると後方からからぐい、と伸びてきた手にムリヤリ桃色のほうへと向けさせられて眉を寄せた。
「…………何をするんだ」
「まーったく君という子は本当に不器用というか。アレだね、愛され方をしらないね」
 ふわふわとした金髪が少しだけ視界に映る。斜め後ろにいる彼は苦笑しているのだろう。そのうちに桃色がふわりと微笑んで、そっと頬に手で触れた。
「貴方はもう十分償いをしたわ。辛い思いもたくさんした。だから、もういいの。泣かないで、悲しまないで。自分を責めないで。――――笑っていいのよ」

「「「ルルーシュ」」」

 三人の声が重なって、少年は、ルルーシュはくしゃりと顔を歪めた。
「兄さん!」
「…………ロロ」
 前方から駆け寄ってくる弟の姿に、ルルーシュは泣きそうになりながら微笑む。それを見たロロが一瞬にして険しい表情を浮かべると、ルルーシュの背後にいるクロヴィスへをギッと睨みつけて詰め寄るった。
「クロヴィスさん! あなた、兄さんに何を言ったんですか!?」
「わわわわたしは別に何も! というか何でわたしだけなんだ!」
「ユーフェミアさんとシャーリーさんが兄さんを悲しませるわけないでしょう!」
「わ、わたしがルルーシュを悲しませると思っているのかね君は!?」
「迂闊なのは貴方ぐらいです!」
「ガーン…………」
 本気でショックを受けたらしいクロヴィスにユーフェミアがくすくすと笑う。怒るロロをシャーリーが優しく宥めていて、そんな光景にルルーシュは涙もひっこめて目を瞬かせた。
「……シャーリー? ロロ?」
「なぁに? ルル」
「どうしたの兄さん?」
「いや、その……お前達……」
 言いあぐねるルルーシュに、そっとユーフェミアが近寄ってそのまま楽しそうに耳元に囁く。
「二人は仲良しさんになったのよ、ルルーシュ。あなたが好きで大好きで、その気持ちを解りあえたから二人は今とっても仲良しさんなの」
 藤色の瞳が目を優しく細めたのにルルーシュも淡く笑みを浮かべた。
「……そうか。良かった」
「ルルーシュ! 私のことは気にしてくれないのかい!?」
「クロヴィス兄さん」
 憤慨したようにずずいと詰め寄ってきた異母兄にルルーシュは困惑する。彼は自分に殺されたのだ。恨まれても仕方が無いのに――――。
「こーらルル!」
「いたっ!」
 その時後ろからポカリと頭を叩かれた。シャーリーが呆れたような顔でルルーシュを見て軽くため息をつく。それをロロが苦笑して見やりユーフェミアは相変わらず楽しそうに笑みを浮かべていた。
「ネガティブ禁止! ここのみんなはね、ルルがどんな思いで、どんな願いをこめて色々やっていたのか知ってるんだよ。だからクロヴィスでん……違った、クロヴィスさんだって全部全部知ってるの。みんな許してるの。ルルが世界を優しくしたのをみんな知ってるの。だから、だからねルル」


 “素直になっていいんだよ”


「……っ!」
 何かが、弾けた音がした。
 その言葉に目の前のシャーリーがみるみるうちに歪んでいく。そっと触れてくる優しい手は一つではなくて。
 頬を包む優しい手。頭を撫でる優しい手。指を握る優しい手。腕に触れる優しい手。
 気が付けばそこは白い空間ではなくて、青空が広がる一面の花畑だった。
 緑の匂いと花の匂いが入り乱れる。風は優しく吹き抜けて、日差しは暖かく辺りを包み込む。そこは優しさしかない場所だった。ルルーシュのための、場所だった。
 涙腺が緩み張り詰めていた心の糸がぷつん、と切れる。溢れる何かが込み上げて唇から勝手に出て行こうとする。それでも残されたプライドが嗚咽を押し止めて、ルルーシュは少し俯きながら呟いた。
「……俺は、馬鹿だったんだ」
「うん」
「本当に大切なものはすぐ傍にあったのに」
「そうだね」
「気付けなくて遠回りして、気付けた時にはもう失ってて」
「ええ」
「欲しかったのは、与えたかったのは、もっと優しいものだったのに」
「うん」
 間違いだったとは思わない。やり遂げたことに不満は無い。けれど思うのだ。もっともっと周りを見ていれば良かった。自分を愛してくれていたものに気付けばよかった。後悔なんてしないと言ったけれど、でも本当に後悔しないわけがない。守れたはずのものも、失わずにすんだものも、もっとたくさんあったはずなのだ。大切なものはこの掌に最初から乗っていたのに、そこから滑り落としたのは全て自分のせいだった。
 寄り添う体温が優しくて、ますます涙が止まらなくなる。こんなに泣くほどの後悔なんてしていなかったのに。辛いのも苦しいのも自業自得で、泣く資格なんてありはしなくて。自分が今まで傷つけてきたもののことを考えれば、痛みなんて感じてはいけないのに。
「いいのよ、ルルーシュ。全部言っていいの。ここではもう無理しなくていいの」
 握りこまれた手が強く握られる。伝わる温もりと肩にそっとかかる重みと穏やかな声は全てを許すような慈愛に満ちていた。握られた手をそっと握り返す。髪が掻きあげられ現れた額にこつりと同じように額が触れた。


「……ナナリーとロロが仲が良くて、時に喧嘩したりしても笑っていて」
「カレンが気兼ねなく堂々と出来て、何も失ってなくって」
「ミレイが生きたいように生きられて、リヴァルはそんな会長と一緒にいられて、時にはつるんで馬鹿なことをやって」
「ジノとアーニャが普通の学生をしていて、ニーナも好きなことができて」
「シャーリーは傷つくことなくいつも笑っていてくれて」
「ユフィも自分の道を生きられて、兄さん達も穏やかに暮らしていて」
「……スザクが、生きることを好きだと言って、アイツが、普通の少女として生きていて……っ」


「そんな世界を見られたら、そんな世界が、欲しかった……っ!!」


 何てよくばりな願いだろうか。何も欠けることなくなんてそんなズルイ夢。
 でも本当にそれだけで良かったはずなのだ。欲しいものは優しい世界。自分の大切なひとたちがただ笑って生きてくれているだけで良かった。
 時に傷つき、悲しみ、苦しみ。笑って怒って泣いて。たくさん楽しんで、たくさんの優しさに触れて、そして生きていってくれれば。“生きる”ということを誰もが享受できる世界が欲しかった。
「……ルル、ズルイなぁ」
 直ぐ近くで小さなため息と苦笑の気配がした。そっと顔が上げられて細い指で涙が拭われる。開けた視界には苦笑したシャーリーと微笑むユーフェミア、笑うクロヴィスと困ったようなロロの顔が見えた。シャーリーはやれやれとでもいうように笑っていて、その笑みは酷く優しい。ここは、優しさが溢れすぎていると思った。
「ルルは、そこにはいないの? ルルの幸せは?」
「俺はどうなっていてもいいんだ。ただ皆が優しい世界で生きてくれていたら」
「そこが解っていないのよ、ルルーシュは」
 少し怒ったように膨れ面をするユーフェミアが軽くルルーシュの頭をぺちりと音をたてて叩く。シャーリーの手が離れて今度はユーフェミアの指がそっと頬をつまんだ。
「ルルーシュが、好きな人には幸せになってほしいって思うように、ルルーシュを好きな人もルルーシュが幸せになってほしいって思うのよ? そうじゃないとみんな幸せになれないわ。だってみんな、ルルーシュのこと大好きなんだもの!」
 そう言ってふわりと微笑むユーフェミアはとても美しかった。そんな女性陣に少し拗ねたのかロロがぽつりと呟く。
「……兄さんは、愛し方が不器用なんです」
「あら、ロロだってそうだったじゃない」
「それはそうですけどっ、でも。兄さんは素直に好意を受け取ってくれないし、与えないから」
「そうね。ルルは愛されてくれないんだもんね」
 ロロの言葉に皆が笑って、ルルーシュは言われた言葉に目を再度瞬かせた。
「愛されて?」
「そうだよ、ルルは愛してくれるけど愛されてくれないんだもん。だから困っちゃうの。お返しをさせてくれないから。みんなルルのこと愛したいのに」
「俺は愛される資格なんて……」
「ルルーシュったら本当にお馬鹿さんなのね」
 ユーフェミアが今度は悪戯っぽく笑った。


「人が人を愛するのに、資格や理由なんていらないでしょう?」


 最愛の妹。唯一無二の親友。最期まで共犯者だった魔女。
 彼らの笑顔が浮かび上がる。
 愛していた。愛している。そうだ、確かに俺は。
「…………そうだな。……本当に……そうだ」
 ああ本当に、君にはかなわない。






「あっちでマリアンヌ様や父上たちがお前を迎える準備をしているんだよ」
「母さんが? それに皇帝まで!?」
「ラウンズたちもね。あと騎士団の人たちも。みんなお前を待ってるよ」
「大丈夫だよ兄さん。たくさん時間はあるんだから、ゆっくり話せばいいんだし」
「そうだよルル。まずは話そう? たくさん話そう? みんなルルのこと、ちゃんと知りたがってるんだから!」
 花畑をシャーリーが駆けていき、ロロがその後ろを追っていく。転ばないでくださいね! と冷や冷やしながら叫ぶロロにクロヴィスが笑っていた。その後ろについて歩いているとだんだん騒がしい声が近づいてくる。遠目に見えてきた集団に思わずルルーシュは眉を潜めた。
「何だアレは」
「横断幕ですって。“歓迎! ルルーシュ様お疲れ様でしたパーティ!”っていう字はお兄様が書いたの」
「まったく、無茶苦茶だなここは……」

 空は青く澄み渡り、まるで今のルルーシュの心のようだった。この身を縛るものは何一つ無い。そこにはただただ穏やかな世界が広がっていた。歩きながら、ふと隣を歩くユーフェミアにルルーシュは顔を向ける。向けられた視線にユーフェミアが顔を上げて、ルルーシュは優しく笑って問いかけた。
「なぁ、ユフィ」
「なんですか?」


「俺は、あの世界をちゃんと愛せていたかな」


「……ええ、もちろん」

 人の身では十分過ぎるほどに

「愛していましたよ」
「……なら、良かった」


 世界を愛せたことを誇りに思う。自分に愛された世界は決して良いことだけではないだろうけれど、それでも世界に明日があるのなら、幸せの種はいつか芽吹くのだろう。妹や親友が、残してきた人たちの願いはきっと叶うはずだ。
 愛が愛を生み出して、命の営みは繰り返されていく。そうして世界は未来へ進む。
 未練や後悔が無いなんてこと、あるわけがない。それでも最期まで悔いの無いように全てを賭けて自分は生きることができたから。頭上に広がる果てのない青空が、その答えをくれたような気がした。

「ルル早くー!」
「兄さーん!」
「ルルーシュー! おつかれさまーっ!」
「さ、陛下。今度こそ優しくするのでしょう?」
「う、うむ……」
「さぁ、ルルーシュ早くいきましょう! みんな待ってます!」
「あぁ。いこうか!」

 地を蹴ってルルーシュは走り出す。嘘のように体が軽い。走る先にはたくさんの笑顔が見える。シャーリーとロロが、ユーフェミアが彼を笑顔で待ち受ける。ルルーシュも、太陽のように眩しい笑顔を返した。きっとそれは、とても幸せな笑顔で。

 世界を愛した少年は今その心に、確かに愛した証を手に入れた。






   
愛したことが僕の生きた証だったこと、気が付いたよ