罠だろう。嘘だろう。虚言だろう。

 そう解っていながらも、ロロは目の前の人物を殺すことが出来なかった。
 きっと彼は自分を憎んでいる。
 最愛の妹の代わりにこのポジションにいる自分を殺したいほど憎んでいるに違いない。それくらい、家族の愛を知らぬロロにも解った。解らざるをえないくらいに、この一年間彼に愛を注がれ続けてきたのだから。
 全身全霊といえるほどの惜しみない無償の愛を。まるで自分が愛されているのだと錯覚してしまいそうなほどに。
 だからこそ彼の囁く言葉を信じられなかった。彼の愛はただ一人、彼の本当の妹に向けられている。昔も今も、そしてこれからも。
 彼の記憶が戻ってしまった以上、もはや自分は彼にとって憎悪を向けられるしかない存在だろう。そんなことぐらい解っていた。解っていた、のに。

 躊躇ってしまった。

 今までなら何を言われても直ぐに殺せた。情をかけることなどなく、ただ任務を終わらせるため。今までの自分なら出来たはずだった。しなければならなかった。それなのに躊躇ってしまった。彼を殺すことを恐ろしく思ってしまったのだ。
 完全に自分の負けだった。もはやロロに救いはなかった。彼を殺すことが出来なくなってしまったのだ。それはすなわち任務の失敗を意味する。帰る場所など何処にも無くなってしまったのだ。

 掛けられる声に震える。
 触れてくる指先が痛くて。でもそれ以上に甘く愛しくて。
 優しげな瞳、柔らかな微笑み。嘘だと思っても、捨てられない。自分に向けられるものではないのに。その裏にあるのは夜叉の顔だと知っていながら、その手を欲してしまったのだ。
 もう、戻れない。任務だけが全てだった自分には、自動人形(オートマタ)には戻れない。
 だから、自分がすべきことはたった一つだった。


「……ロロ?」
「……ごめんなさい、兄さん。少しだけで、いいから……」

 細身の体に手を伸ばした。薄い体はまだ出来上がっていない貧弱な体躯でも簡単に包み込める。縋るように背中に腕を回して、ぎゅっと力を込めて胸元に顔を埋めた。

「ロロ? どうしたんだ?」

 戸惑っているような声に反応せず、更に顔を押し付けた。困惑しているような雰囲気に気付きつつもじっとしていると、やがて小さな溜息が落ちる。そしてさらりと髪を梳く優しい感触に、涙が出そうになるのを必死で抑えこんだ。
 彼は本当は、とても演技が下手だ。それをロロは知っている。知ってしまっていた。
 一年間彼の傍に居続けたのだ。他の何にも目を向けずに、ただひたすら彼を。だから本当は『優しい兄のフリ』をしていることさえ解っていた。演技が上手すぎるからこそ、彼はイレギュラーな状態に陥ると少し無防備になるということを。
 例えば、今何の前触れも無く抱きついたように。
 彼は困惑はしたけれど、やんわりと引き離しすらしなかった。ロロが触れているのを許容したのだ。きっとこの行動が想定されていたなら、彼は優しく美しい微笑を浮べてロロの顔をあげさせただろう。そしてその指先で頬を撫でて、とろけるような愛に満ちた声でロロの名を囁くだろう。完璧な兄の顔で。
 でも、彼はそれをしなかった。
 出来なかった。ただただ驚いて、戸惑いつつもロロを受け入れた。憎んでいるはずの人間を!

 ――ああ、なんて残酷で愚かな優しいひと。

 彼はもう、ロロを受け入れ始めている。
 心では駒だと思っていながら『ロロ』という個人を認めてきてしまっている。そうなってしまったら彼は自分の内側にいる人物を切り捨てられなくなる。少しでも情が湧いてしまえば、もはや惨い扱いは出来なくなるのだ。そのことにロロは絶望と、それを上回る歓喜を覚える。
 もう、害を加えることなんて出来ない。任務は確実に果たせない。けれども、この美しいひとの傍にいられるのだから。

 優しく髪を梳いてくる指に身を任せながら、少しだけ目線を上にあげた。
 そしてそこに見えたものに。今はないけれど、確かに彼に纏わりつく幻を睨んだ。
 兄の肩に触れる男の指。柔らかそうな茶色の髪と、常磐色の瞳。
 彼が、この優しい兄を縛る呪いだ。
 幻影は何処までも彼に付き纏う。夢の中でさえ、兄を追い詰める。
 奪うことしか出来ない男。兄の最愛を奪い、それが自身にとっても大切な存在であったとしても切り捨てることの出来る男。
 ああ、なんておぞましい。あんな存在がこの優しいひとを苦しめていた。そして今もまたルルーシュを苦しめようとしている。

 守って、みせる。
 兄に自分をもっと受け入れさせるのだ。あの男の隙間も入らないくらいに。自分とナナリーだけで兄を埋め尽くしてしまえばいい。幻影など彼方に消え去るくらいに、もっと。もっと。消してしまえばいい。
 そしてそれが叶う時、ロロは確かな未来を手に入れられるのだ。

 暗い光を兄に見せぬように目を伏せて、ロロはそっと唇をルルーシュの左胸へと触れさせた。
 それはまるで、何かの誓いをたてるかのように。




“進んできた道には、始めから引き返す道など無かった”














 “あれ”は偽者だ。

 笑みを浮かべた仮面の下で、騎士は昏い瞳をそれに向けた。

「兄さん、ここは?」
「ん? ああ、ここはだな……」

 生徒会室のテーブルの一角では小さな勉強会が開かれていた。ロロがノートを広げ真剣に課題に取り組み、その横でルルーシュが書類をやりながら丁寧に教えている。シャーリー達には見慣れた光景なのか、微笑ましそうに見守るだけで誰も声をかけようとしない。リヴァルだけがやれやれと仲睦まじい兄弟に呆れたような笑みを浮かべていた。
 そんな柔らかな空気が満ちる中で、スザクは一人苛立ちを感じている。もちろん他の誰にも悟らせぬように表面上は仕事をやりつつ笑みすら浮かべて。もしルルーシュが記憶を取り戻しているのならば気づくかもしれないが、彼はどうやらまだ取り戻していないらしい。それが演技かどうかは見抜けなかったが、少なくとも今のスザクに気づく人間は誰もいなかった。

 “代役”が用意されたことは知っていた。
 それがあまり年の変わらぬ少年であることも。内気そうで、なるべく“彼女”の雰囲気に似た人物――それでいて暗殺に長けた人物を派遣したとは聞かされていた。
 話によれば、彼は任務に忠実で感情の起伏が薄い人間だという。呼吸をするように人を殺し、命令に従う自動人形(オートマタ)。駒としては実に優秀だと。
 けれども、今この目で彼を見ているとその話とは全く結びつかなかった。
「ほら、待てロロ。まだこっちの計算式が終わってないだろう?」
「でも先にこっちを出したほうがいいんじゃない?」
「それをすると後でややこしくなる。所詮教師が採点するだけのものなんだから、型にはまった通りの答えを出したほうが点はよくなるぞ」
「…………」
「何だ?」
「兄さんて、何かこずるい感じの事ばっかりす「じゃあ俺は自分の書類に専念するか」
「まだ終わってないよ! ごめんなさいっ! ごめん兄さんってばっ!」
 慌てて書類に向き直ったルルーシュをロロが引っ張る。暫くは全く振り返りもせずに黙々とペンを動かしていたルルーシュだったが、ロロが本気で泣きそうになるのを見るとくすりと笑ってまた教え始めた。それは入れ替わりの人物――ナナリーと接する時とは違う、からかうのを楽しむような態度であったが、それでも本当に仲が良いのだと解る。いや、周りへと解らせている。だからこそその態度が本当なのか、スザクは疑ってやまない。
 もし、ルルーシュに記憶が戻っているならば。
 彼を殺すのは自分の役目であり、暗殺者の手ではないのだから。

 目の前で仲睦まじく課題に励む姿は何かをちくりと刺す。優しく慈しむように触れる手や声。その全ては一年前までたった一人の少女のものだったのだ。それが今ではよりにもよって暗殺者のものに。
 未だ兄が生存していることも知らず不安に震えている少女を思い出すと、スザクはどうしてもロロが好きになれない。自分で起こした自体だというのに、やり場のない感情の捌け口がロロに向いてしまうのをスザクは自覚していた。憎んでいるはずのルルーシュの一番傍にいるというのも、気に食わない一因の要素かもしれない。もはや誰も傍にいけないのだ。全てを失ったルルーシュの傍には。ナナリーも、スザクも。あの夏の日の眩さは全て消えてしまったのだから。
 どうしてじっとしていてくれなかったのだろうか。今でもスザクはそう思う時がある。ユフィが殺され、ナナリーと自分に嘘をつき裏切っていたと知り、憎悪と殺意に身を焦がしながらもそれでも「もしも」の世界を捨てきれない。
 もしも、ルルーシュが何の罪にも黒にも染まっていなければ。ナナリーと共にこの平和な箱庭で生きていてくれれば。
 それならばスザクは今でもまどろみの幸福の中にいたはずだというのに。

 スザクの手は、まだルルーシュの肩にかかったままなのだろう。
 消し去ってしまいたいのに、まだ捨てきれない。彼を何処かで求めている。顔を正面から見られないから、背後から包み込むように緩く手が肩に触れているのだ。そのまま引き寄せて抱きしめてしまいたい願望にかられても、燃え盛る憎悪の炎とそして――縋るようにルルーシュに回された細い腕がそれを拒む。
 抱きつくようにして懐に潜り込み、ルルーシュの体に手を伸ばし逃がさないというように縋りつく腕が見える。その腕を叩き落してやりたいとスザクは思った。偽者が偽者に縋るなど、何て愚かな。(偽者が、本物に戻っていたら?)偶像同士お似合いだと蔑めばいいはずなのに、離れろとわめきたい気持ちに駆られる。(彼は、自分の)ああ、本当は縋りつく腕は偽者の弟の手ではなくて、本当は
「スザク?」

 はっとしてスザクは思考の淵から意識を引き上げた。
 目の前を見るとどこか心配そうにルルーシュがスザクを見つめていた。他の面々を見るとルルーシュ以外にスザクの様子に気付いたものはいなかったらしい。――ルルーシュ以外には誰も、気付かない。
 少しぼんやりと彼を見るスザクに、苦笑を浮かべたルルーシュは少し茶化すように声をかける。
「疲れてるんじゃないのか? ラウンズ様だと大変だよな仕事も」
「いや、ちょっと考え事してたんだ」
「あんまり無理はするなよ」
 かけられる言葉は一年前と同じように労わりを含んでいて、気取られぬように歯噛みした。その優しさが疎ましく、でも何故か嬉しくて。そんなことを思う自分が嫌で。でも、
「ありがとう、ルルーシュ。……でも君も疲れてるんじゃない? あ、そうだ肩揉んであげよっか」
「は?」
「この前ちょっと教えてもらったから試したいんだ。ね?」
「……くれぐれも関節間違って外すような事態にはするなよ。お前ならやりかねないからな」
「はーい」
 訝しげに見上げてくるルルーシュに明るく返事をして、スザクは彼の背後に立つ。そしてその肩に手をかけて少しだけ嗤う。
 気配は薄いながらも、突き刺さるような鋭い視線は何処からかか見なくても解る。その嫉妬に似た感情にスザクは矛盾した感情を内包しながらも込み上げる思いを制御することは出来なかった。

 例え記憶を失っていても、失っていなくとも。ルルーシュはスザクに縛り付けられている。ナナリーと、スザクが彼の中には色濃く残っている。
 だから、偽者など勝てるはずがないのだ。

 スザクは気付かないようにしている。何故偽者を疎ましく思うのか。何故そんな偽者に牽制するような態度をとるのか。ルルーシュが自分に縛り付けられていることを知り、何故それを心地よく思うのか。
 気付いているのは、偽者のはずの少年だけ。




“執着の果てに見るものは、切なる願いの断片だろうか”





Thanks illustration by 久崎一様