『ちゃんと、返してくださいね?』 貸しただけ。私のものを、貸しただけ。 何時か誰かのものになってしまうだろうことは解っている。兄も自分も、二人だけの世界が良くてもそれだけで良くても、生きていく限りそれは出来ない。そのことをあの七年前の夏の日から知っていた。 だから願った。 優しい世界。自分達だけで生きなくていい世界。もっとたくさん大切なものを作ってもいい世界。一番は相変わらず不動だろうけれど、もっと望んでもいい世界。 我が侭だと思うけれど、でも、欲しかった。兄が笑える世界が欲しかった。 でも、その兄も奪われて。 彼は自分から、世界からあの人を奪うつもりなのだ。 貸したものを返さないつもりなのだ。 奪われたなら、取り返す。 今の自分には、それを可能にする力があるのだから。 「……押されてる、わね……!」 戻ってきた祖界の光景は凄惨たるものだった。瓦礫と化した街並みは自分達がやったこととはいえ、対峙していたブリタニア側も思慮していた様子はない。 これが弱肉強食の体現だというのだろうか。弱者を切り捨て、強者を尊ぶ。ブリタニアの国是。 弱者は敗者になるしかないのか。 ゼロを失った途端に命令系統が瓦解した騎士団は、何とか藤堂が支えていたようだが最早それも風前の灯火のようだった。覆せないだろう敗北の烙印に、カレンは唇を噛み締める。 ここまで、か。やはりゼロが、ルルーシュがいないと、どうにも―――― 肩を落としかけたその時、凛とした声が静かに言葉を紡いだ。 「…………騎士団を、戻しましょう。一度体勢を立て直す必要があります。全て残らず速やかに。正し、軍人以外のブリタニア人に手を出している人は無理に助ける必要はありません。主要メンバーは確実に助け出す必要がありますが」 「ナナリー……?」 「まだ残存している兵力は全部撤退させてください。何が何でも、逃げ延びるのです。どんなに無様だろうと構いません。――――勝てない戦で命をわざわざ落としに行くのは、戦って亡くなられた方々に失礼です」 現状の凄惨な光景が見えないからではない。彼女はちゃんと解っていて、その上で発言していた。静かに紡がれるその言葉はゼロのような威圧感は無くとも、不思議と信頼できるような気になる。一度目を閉じて、カレンはくすりと笑みを浮かべてみせた。 「……解ったわ。騎手団を撤退させる。まずは藤堂さんとディートハルトに連絡を……」 「藤堂さん?」 「え? ナナリー、知ってるの?」 「C.C.さん……」 「そうだナナリー。藤堂はお前の知る人物だよ」 「…………そう、だったのですか」 ナナリーの声が驚くようなものだったことにカレンは首を傾げた。 彼女の声は知らない名前に問いかけるようなものではなく、不意打ちをくらったような声だったからだ。更にそれに続いたC.C.の言葉にも目を瞠る。ナナリーは彼を知っていた。 何処か納得したような声でナナリーはそっと息をつく。そして俯かせていた顔をゆっくりと上げると開かない眼差しをカレンへと向けた。 「カレンさん。カレンさんは、騎士団のエースパイロットなんですよね?」 「え、ええ」 「こいつの腕はあの枢木スザクと引きをとらずに戦えるくらいだ。今は少々機体が損傷しているせいでどうなるか解らないが、それでも保証はする」 偉そうな口調で言うC.C.の言葉にムッとするも、褒められてはいるようなので口は出さない。そうしていると暫く考えていたナナリーがC.C.を見上げてうっすらと微笑んだ。 それはどこか悪戯っぽく、なのに寒気がするような微笑で。 「……カレンさんは、何も知らないんですよね?」 「ああ」 「でも、お兄様を助けるのには恐らくカレンさんが必要です」 「そうだな」 「……信頼出来ますか? C.C.さんは」 「私に意見を求めるのか?」 「だって、あなたも“共犯者”でしょう?」 助け出したいんです。 「……信頼できる。ルルーシュは、そこまで信じられなかったようだが」 「じゃあ決まりですね」 浮かべられた微笑に何かの面影を見て、C.C.はフッと笑みを浮かべた。その言葉にふわりと嬉しそうな笑みを浮かべて、ナナリーは話に付いていけないカレンを見やる。さっぱり訳が解らないと言いたげな彼女に微笑んで、少女はさらりと爆弾を落とした。 「カレンさん。今から私の言う通りに動いてください。説明は後でしますから、お願いします」 「えぇっ!?」 さすがのカレンもその言葉には困惑した。目の見えない彼女がどんな指令を出すというのだろうか。しかもこんな土壇場で。 C.C.ならともかく、ナイトメアに乗るのすら初めてだろうナナリーに何が出来るというのだろうか。 どう答えていいものか考えあぐねているとビーッ! と甲高い音が響いた。通信。まだ答えは返していないが、とりあえずカレンは通信を開いた。 「はい」 『紅月か!? ゼロはどうした!』 「えっ、と……」 『カレン……、ゼロ、は……』 ばたばたと走り回る音や銃撃音が聞こえる。ノイズ混じりの焦る声に汗が滲むものの、カレンにはどう返せばいいのか解らなかった。自分だってまだ理解出来ていないというのに。 何も言えずに唇を噛んでいると、肩にそっと温もりが触れる。ハッと驚いてそちらを見やると、優しい微笑みを浮かべてナナリーが唇を開いた。紡がれるのは、静かだけれども人を従わせる声。 「ゼロのことは一度置いておきましょう。今は貴方がたの安全のほうが最優先です。ブリタニア軍に捕らえられてはなりません。何をしてでも、その場から逃げてください」 『!? お、お前は誰だ!?』 「えっと、その、この子は……!」 「私のことは後で幾らでもお話しすることが出来ます。それよりも今は、この場をどう切り抜けるかです」 驚愕と警戒を含んだ仲間の声にカレンはどう説明するか迷ったが、しかしその前にナナリーがやんわりとその言葉を遮った。きっぱりと言われた台詞に少々あちらも面食らったらしく、言葉が途切れる。その隙をつくかのように、ナナリーはすらすらと今この場に必要な事を述べていく。 「まず、占拠している学園を捨ててください。そこは例えまた上手く占拠したとしてもブリタニア側からすれば捨て駒にしかなりません。学園ごと焼き尽くしかねませんから。……いえ、恐らくそうするでしょう。そこまでではなくとも、強行突入してくるのは火を見るよりも明らか。その場合、こちらが更に追い込まれる危険性があります。かといって何処かに移ったとしても、現在騎士団が占拠している他の場所が突破されるのも時間の問題。ブリタニアは自国に多数の犠牲を出しても、こちらの力を奪いに来るでしょう。もしこれ以上の損害がこちらに出れば……恐らく二度と、日本という名はこの国に戻りません」 仮定の話をしつつも、彼女には既にそうなった場合の未来が見えているようだった。痛ましげに眉を寄せて、その面差しを伏せる。可憐な声ですらすらと淀みなく話される言葉に困惑しているらしい様子が、通信機越しに窺えた。そういえばC.C.は、と思ってちらりと後ろを振り返れば彼女は何処か誇らしげにも見える顔でナナリーを見やっていた。そう、それはまるでこのくらい当然だといわんばかりの表情で。 ナナリーの言葉は続く。 「それを防ぐためには、今、この危機的状況から何が何でも逃げ延びなければなりません。敵に背を向けることは屈辱でしょう。けれども、だからといって一番の目的を見失っては何もならないのです」 『……一番の、目的?』 「この国の名前を、日本を取り戻すこと。ちがいますか?」 『っ、』 「花が散り行く姿は確かに美しいですが、散るのではなく枯れてしまってはどうにもならないのです。此処で踏みとどまることは咲きかけた花を枯らすのと同じ。だからどうかお願いです、此処から逃げてください。そして、もう一度体勢を立て直しましょう。ゼロのことは、逃げ延びた後に必ずお話します。だから今は、私の言葉を聞いてください」 カレンは思わず息を呑む。 花。その言葉に思い出すのは、美しい薄紅の花びら。 昔は、この国のいたるところで見られたはずの、あの――――。 『……君は、誰だ?』 「……この世で一番大切なものを、ブリタニアに奪われた被害者の一人ですよ」 加害者でもあるのでしょうけれど、と何処か自嘲気味に落とされたほんの小さな呟きが聞こえたのは、カレンとC.C.だけだった。 未だ完全に納得はしていないようであったが、カレンが彼女は敵ではないと何度も説得し一先ず騎士団は租界から一度撤退することとなった。軍側にある程度のダメージを食らわせられれば、逃げ延びる暇はある。既に日本へは新たな増援部隊が接近していることは解っていたので、そちらからも逃げなくてはならない。そのためには目晦ましが必要であった。何せかなりの規模となった騎士団だ。それなりに派手なことをしなくては、到底逃げられやしない。 学園側ではかなりの騒動があったようだけれども、その機に乗じて上手く抜け出せたようだ。何人かは捕まるのを覚悟で残ったらしいが、それもまた必要なことだろう。誰かが犠牲にならなくては、あの場を抜け出すことなんて出来なかった。それでも、その残った数人のことを考えてカレンは悔しそうに唇を噛んだ。 カレンが他の部隊とも連絡をとっている間、後ろではC.C.とナナリーが何かを話し合っていた。微かな声で喋っているため何を話しているのかは解らなかったが、C.C.が滅多に見せない顔で心配そうに語りかけているのが印象的だった。ナナリーはそんな彼女に微笑んでから、何かを抱えるように胸の前で手を組んでいた。 儚い少女だと思っていた。護られるべき、弱者なのだと。言い方は悪いけれども、護る側には回れないはずの少女だった。兄に、ルルーシュに慈しまれ生きていく宝物なのだと。 それは、『ナナリー』という少女の一つの面にしか過ぎなかったということを、カレンは知ることになる。 「カレンさん、お話は終わりましたか?」 「ええ。……とりあえずは、騎士団を後方に下がらせるために……誰かが囮になって引き付けようってことになったわ」 「カレンさん、『誰か』じゃないですよね? カレンさんなんでしょう、その役目は」 「…………」 ランスロットに右腕を破壊され、武器である輻射波動が使えない今紅蓮弐式の攻撃力は下がっている。しかし、それでも彼女が黒の騎士団のエースパイロットであることは紛れもない事実だ。この機体でも他の隊員にさせるよりは生存率も上がるだろう。だからカレンはその役を買ってでた。もしも――ブリタニア軍に捕まっても、黒の騎士団のことは喋らない自信もあったから。どんなに拷問を受けようと、どんな扱いをされようと、あの場所を守ることを。 殺されるのは癪だけれども、それよりもこの少女を護るほうが先決でもあったから。 「ナナリーは、今から向かうG1に乗って逃げて。あれも目立つから多分放棄することになるだろうけれど、C.C.と一緒なら何とかなるわ。アンタ、絶対ナナリーを護りなさいよ?」 「当たり前だ。……と、言いたいところだがそれは無理だ」 「何でよ!」 「囮になるのはお前じゃないからだ。私はそれを身近で見つめる権利がある。護られるのは、ナナリーではない。私やお前だ。少なくとも今回に限っては」 「は? 何言って……」 「カレンさん、お願い聞いてくださいますか?」 言い争いに発展しそうになったその場を柔らかな声が遮った。その問いは先程も掛けられた言葉で、カレンは口を閉じる。返す言葉を考えるカレンに、ナナリーは微笑みを浮かべたまま信じられないことを告げた。 「私をここから下ろしてください。囮になるのは私がやります」 ――――暫くカレンは呆然としていた。 言われた言葉の意味が全く解らなかった。彼女が、ナナリーが囮になる? そんな馬鹿なことが!! 「冗談でしょうナナリー!? あなたが、囮になんてそんなことっ!!」 「今、この場は混乱しています。全く別方向からの攻撃を仕掛ければ場は更に混乱し、それだけ逃げられる可能性も高くなるはずです」 「そうかもしれないわ、でもあなたに……何が出来るの? その、目と足では……」 「大丈夫です。カレンさん」 言いにくそうに伏せ目がちに発された単語に、ナナリーは殊更優しく微笑んだ。動かない足で。見えない目で何が出来るのか。解っている、でも、それでもと彼女は言う。 「私はもう、お兄様に護られるだけのナナリーじゃないんです。私はもう戦えるんです。例えば貴方と同じように、私もこの世界に逆らうことが出来る。それに、」 私は、お兄様を取り戻すのですから。 「こんなところで時間を食っている暇はないんです」 それでも猛反対するカレンをC.C.が無理やり押さえつけて、ナナリーを外へと下ろした。 外は硝煙の匂いが立ち込めて、死の香りしか漂っていない。そんな空気にナナリーを近づけてはいけないと思った。そう思ったからカレンは必死でC.C.を押しのけようとする。 しかし、その前に外で何かが蠢き胎動し始めた。 「な、に……っ!?」 「……そうか、それが、お前の願った力か……」 紅蓮弐式の外。そこには、瓦礫以外に何も無かったはずだった。 けれども今、その場所には暗き光と共に何かが生まれ出でる。 赤と、黒の。 血のような赤と、闇を纏ったような――黒の。 「ナイトメア――――」 そこにいたのは、少女の姿ではなく。 騎士ではない、悪夢を体現したかのような機体だった。 「……行きましょう、私のナイトメア。この場の未来線は十時の方向、58キロメートル先にある。一番懸念するべきあの白き騎士はいない。ならばこの場は私の盤上。勝てるものなど――いないわ」 『君は何を望むのかな?』 そんなの一つに決まっている。 あの人がもう泣かなくてもいい世界。 優しい世界。 そのためならば、この手を、体を、魂を血で染める覚悟など疾うに出来ている。 ただあの人がそれを望まなかったからしなかっただけで。 でも、もう待てない。もう、黙って見ていることなんて出来やしない。 奪われた大切なものを取り戻すためならば。 悪魔とだって知っていても。力を欲す。 どんなに不利な契約でも、それでも。 私の世界の中心は、愛しい人は。 もっと優しい世界に生きて欲しいから。 ――――貴方のために今、世界へ剣を向ける。 “そして始まりの扉は開かれる” |