いつだって、望んでいたのは小さな願いだった。 『優しい世界』 優しく強く気高い母と、聡明で優しい兄と、たまに訪れる腹違いの優しい姉妹。 その頃は何時だって自分のいる世界は優しさに満ち溢れていた。 たまに心無い嫌がらせを受ける時もあった。辛い言葉を浴びせられるときもあった。 それでも世界は決してそればかりではなくて。それ以上の幸せが与えられていた。 どうか、どうか安らかに。ただ、親子で幸せに過ごせたなら。 地位も素敵なドレスも宮殿もいらない。 ただ、皆が元気で心穏やかに暮らせればいいと。 それだけだった、のに。 世界は、たった数分で全てを奪い去って。 そして自分は、瞼を閉ざした。 もう何も見たくなかったから。 暗く汚れた世界なんて、何一つ。 そんな弱い自分を、共に残された兄は心から愛してくれた。 父のように、母のように。惜しみない愛情をめいいっぱい注いでくれた。 きっと自分なんていうお荷物が無ければもっと上手く生きれたであろう兄は、そんなことを全く考えたことも無いのだろう。 目は見えないけれど、自分に向けられている笑みはこの世界の誰に向ける笑顔よりも優しいのだと感じている。兄がどんなに自分を愛してくれているかを知っている。 そして、世界は綺麗だけじゃないけれど、でも希望が、救いが無いわけじゃないこともちゃんと知っている。 この地に来て出会った少年。 最初は乱暴だったけれど、でもその裏に優しさが秘められていることを知って。 最後に別れる時も少しでも彼を救えれば良いと思った。どうか幸せになってくれればと。 兄が、信用して。信頼して。好意をもった人だったから。だから。 『忘れないでください、お母様が教えてくれたんです。何時だって差し伸べられる手はあるからって』 握り締めたこの暖かい手が、悲しいことだけを掴まないようにと願ったのに。 感じたのは、最愛の人が奪われたこと。 ああ、やっぱり。 貴方は奪う人。私の最愛を。もう、絆は一つなのに。 確かに昔は貸してあげたこともある。でも、貸しただけ。 貴方にあげるなんて、許可してない。 しかも無理やりだなんて。あんなにあの人を傷つけて、泣かせて。苦しませて。 姉は良かった。優しかったあの人は、最後は絶対にハッピーエンドにしてくれるから。 だから姉だったら任せられたのに。 貴方じゃ駄目だ。 奪うことしか知らない貴方じゃ、幸せに出来ない。 もう、私から奪わないで。 願ったのは仄かなる望み。どうか平穏に暮らせたら。 それすらも許さないと、世界は言うのか。 ――――ならば、取り戻そう。 世界が奪うというのならば。ならば、私はそれを取り戻そう。 世界は辛く苦しく悲しい。そんなことは知っている。だからもう何も見たくなかった。 でも、そのせいで奪われるのならば。 最後のたった一つまで奪われるのならば。 私には取り戻す権利がある。 だから、私も。 「……いったい、なんだっていうのよ……」 カレンが呆然と呟いた言葉に返される声は無かった。 目の前で起こった出来事に成す術も無く、今まで崇拝していた人は目の前で撃たれて。 撃ったのは元自分のクラスメイトで。 二人は親友だったはずで。仲が良いと思っていた。 それでも憎悪に満ちた眼差しはお互いに向けられて、自分はただそれを呆然と見ていただけだった。 撃ち合いは、枢木スザクが制した。 ルルーシュの撃った弾は彼の顔を掠めたけれど、彼の撃った弾はルルーシュの足を撃ち抜いた。 それでふらついた彼にスザクは手刀を首に落とし気絶させた後、彼をこの場から連れ去った。 一連の行動をカレンは見ているだけで。どうすることも出来なかった。 止めることも、諌めることも、何一つ。 どうすればいいのか解らない。 彼が、ゼロがルルーシュであったことを。 その真実にどうすればいいのかが解らないのだ。 怒ればいいのか、泣けばいいのか、恨めばいいのか。 騙されていたのだと思う。 この国を助けるフリをして、世界を手に入れようとしていたのだと。 だから自分は憎むべきなのだ。信じて、敬愛して、下手をしたら恋心まで抱いていた相手を。 裏切られたの、だから。 でも、そう思っていても。 今だって暗く濁った何かに押し潰されそうになっている。でも、それでも。 彼の望みが世界を手にすることだったとは思えない。 何故なのだろうか。 もし、これが『ゼロ』だったらそう思った。世界を手に入れる。そうなのか、と納得しただろう。 でも彼は『ルルーシュ』だった。 世界を斜めに見ていて、正論しか言わない。どちらかというと無表情で周りに無関心で、それなのに妹にだけはとても優しくて。頭が良くて、それなのに自分から裏に籠もり前には出ないタイプだった。 いけすかない人物。嫌いな、苦手なヤツ。そうとしかカレンの中では認識していなかった。 でも、その反面妙に気になってもいたのだ。 正論しか言わないのに、日本人で容疑者扱いされていた枢木スザクを『友達』だと言い切った。面倒ごとは嫌いなはずなのに、危険な場面で前に出る度胸はある。頭の良さを隠そうとする。 だから、違和感があるのだ。 彼の世界は、彼と彼の妹で閉じられていたようにも見えた。 二人ともお互いがいれば十分、と言い出しそうな優しい空気を纏っていて。兄を亡くした自分は少しそれが羨ましくも合った。でも見ていれば解る。この二人はお互いが幸せであればいいのだと、嫌でも。 閉じた世界。けれど閉じられたはずのそこに、ほんの少し何人かが入れる。 スザクもその一人で。たぶん、自分もその括りの中に僅かながらも入っていたと思う。 だから尚更違和感は拭えない。何故ルルーシュが世界を望む? そんなタイプには見えなかった。いや、そんなことを彼は考えないだろう。欲しがらないだろう。彼には妹がいればいいはずなのだ。ナナリーが、幸せでいてくれれば――――。 「………………あ、れ?」 思考の海に何かがひっかかった。 そうだ、彼はナナリーが幸せであればいいはずだった。少なくともそう見えていた。他の誰かに聞いてもそう言うだろう。ルルーシュが一番大切なのはナナリーなのだと。 そんな彼が、その最愛の妹を置いて自分の望みのために世界を欲しがるだろうか。 答えは否、だ。 彼がナナリーをほったらかしにして、己のために世界を手に入れようなどとするはずがない。 だとすれば。世界を手に入れようとした、その原因は――――。 「わたしのせい、です、ね…………」 不意に聞こえてきた微かな声にカレンはばっと顔を振り仰いだ。 何かの文様が描かれていた扉が淡く発光している。その扉が不意にふにゃりと陽炎のように歪むと、そこから現われた人物にカレンは壇上を駆け上がった。 「ナナリー!」 何時ものように車椅子に乗り、制服で現われた彼女は見る限り怪我は無さそうで若干ホッとする。それと同時に何故ルルーシュがここに来ていたかも思い出した。スザクに言っていたではないか。「ナナリーが攫われた」と。 だからあの場を抜けてまでここに来たのか、とカレンは唐突に理解した。彼の妹への執着は半端ではない。彼女が攫われたのならば確かに彼は全てを捨てて、形振り構わず奔走するだろうと納得する。彼女は彼の、ルルーシュの世界の中心で全て。 そして、きっと。 「ルルーシュが、ゼロになったのは……あなたの、ため……?」 たぶん、そうなのだろう。 まるで自分の心を読み取ったかのようなさきほどの言葉にカレンはどきりとしつつ、理解する。ルルーシュのゼロとなった理由はきっと妹なのだと。何かしらの理由でゼロになったのだと。 彼女の安否を確かめていると、その呟きが聞こえたのかナナリーは少し困ったように微笑みながら「いいえ」と言った。 「お兄様がクロヴィス殿下を何故殺害したのかははっきりとは解りませんが、ゼロになった理由は一つです。あの時容疑者とされていたのが……スザクさんだったから。きっとあの人じゃなければ、お兄様はまだ表舞台に立とうとは思わなかったでしょう。だから最初にゼロとなった理由は私のためじゃないと思います」 静かに語るナナリーの言葉にカレンはふと違和感を感じる。そしてその違和感に気がついた時、驚いてナナリーを見つめた。何故なら彼女の言葉には明らかに示された事実があったからだ。 「ナナリー……貴女、もしかしてゼロがルルーシュだって知っていたの……?」 「……私、七年間目が見えていないせいで他の感覚に敏感になったんです。それに生徒会室にゼロが来たときにやっぱり、って確信しましたから」 困ったように微笑んで、ただ、と彼女は少し俯きながら告げる。 「ゼロとして、本格的にブリタニアへと抗争を開始し始めたのは私のためだと思います。お兄様はとても優しくて……悲しいくらい優しくて、私を愛してくれているから、だから……」 そのまま俯いてしまったナナリーにカレンはかける言葉を思いつかなかった。 絶望した。裏切られたのだと。扇のいうように兄の夢を継ぐ者なんかじゃないと、恨みすら感じた。 だけれどもナナリーの言葉を聞くうちに、冷静になるうちに生じた考えがある。 ゼロは、ルルーシュは。裏切ったわけじゃない。 彼には最初から此処は通過地点に過ぎなくて。日本を解放するのはついでだったのだ。それを考えると苦い気持ちになるけれど、何故そうなのかを考えれば認めざるをえない。だって彼も、護るものが、護りたいものがあったから。 何故ナナリーを護るためにそうしなければならなかったのかは解らないが、少なくとも理由と確信はもてた。 彼は裏切ったわけじゃない。 彼は、ただひたすらに護りたいものを守りたかっただけなのだ。 ここで俯く、心優しい妹を。 理由を知りたい。 恨むのも憎むのも詰るのも、その後だ。 一度壇上から降りて、落とした銃を拾いしまった。ナナリーの傍に戻り扉を見やると、そこはもうただの壁に戻っていた。となればもはや此処に用はない。ないけれども。 「……どうしよう……」 理由を知るためには、まずルルーシュと話す必要がある。しかし彼は今さっき自分の目の前で攫われてしまったのだ。しかも非常にマズイ相手に。 こんな事態の中で助けに行くと言っても良い考えが思い浮かばない。それに今は早く租界へ戻って戦況を確認しなくては。でも、その前にナナリーを戻さなくては。でも何処に? アッシュフォード学園か? でも学園は今、どうなって――――。 「カレンさん」 考えすぎで混乱しかけたカレンを呼ぶ声に、はっとそちらへ目を向ける。そこには俯いていたナナリーが顔を上げてこちらを見ていた。 「お願いがあるんです。私を租界まで――黒の騎士団に連れて行ってください」 「なっ!?」 突然出された願いにカレンは思わず目を剥いた。当然だ。黒の騎士団は主に日本人で構成された組織である。しかも今は抗戦中で何処も彼処も対ブリタニア一色で染まっている。そんなところにブリタニア人である彼女を連れてなどいけない。 第一、彼女はルルーシュの妹なのだ。極力守りきりたい。彼がゼロになってまで護りたいと思ったであろう至宝を、危険に晒すわけには行かなかった。 だがしかし、ナナリーはどこか決然とした声で続けた。 「危険なのは百も承知です。けれど私はもう、ただ待っているのは止めにしたんです。それにお兄様がスザクさんに攫われた今、黒の騎士団は危険な状況でしょう。それをどうにかしなくては――お兄様が帰ってくる場所を守らなくちゃいけないんです」 最後の単語にカレンは瞠目した。 帰る場所。 守りたいもの。 それは、何時かの自分が決意したものと似ていた。 「……解った。でも、これだけは約束して。絶対に私の傍から離れないこと。いいね?」 「はい、解りました」 「じゃあ、とりあえずこの車椅子をどうにかしなくちゃね……。ナナリーだけだったら乗せられるんだけど」 「? 何で来ているんですか? それと、ここは一体……」 「――――本島より離れた小島さ。ちなみにここは洞窟内だな。乗ってきたのは紅蓮弐式という日本が作ったナイトメア。カレンはナイトメア乗りで騎士団のエースパイロットだ。」 「っ!? C.C.!? アンタその格好……!」 「……ゼロはどうした。枢木スザクにでも連れ去られたか?」 洞窟内に反響した声に入り口の方から歩いてくる人影を見て、カレンはぎょっとした。 現われたのは確かに騎士団内の、そしてゼロの最も近くにいた少女であったがその出で立ちが凄かった。パイロットスーツのところどころはびりびりに裂け、白い肌が露になっている。どうやら怪我はないようだが、髪もぐちゃぐちゃで焦げたような痕がある。極め付けが全身濡れ鼠だということだろうか。 思わず絶句してしまったカレンであったが、C.C.の言葉に唇を噛んだ。その様子に察したのか彼女はそっと溜息をついて目を少し伏せる。ぽたぽたと落ちる雫にうっとおしげな表情を浮かべつつ、こちらを見やって――C.C.はその琥珀色の瞳を見開いた。 「な……っ!!」 「え? どうしたのよ?」 「……まさか……お前までもか!?」 「はっ!?」 「何故それを持っている! 与えたのは……そうか、そういう……」 突然驚愕した様子で叫びだしたC.C.にカレンは困惑した。何を言っているのかがさっぱり解らない。それを問いただそうとしたとき、隣から発せられた声に口を閉じた。 「いいんです、C.C.さん。これは私が望んだんです」 「だがナナリー解っているのか? それを手にすればお前は」 「解っています、最初に教えられましたから。覚悟は出来ています」 「……それをどうする気だ? お前はそれをもって何を望む?」 「……私、もう諦めるのはやめにしたんです。世界は私から大切なものを取り上げるのが好きなようですから。だから私は後悔などしていませんし、しません。――決めたんです。奪われたのならば、取り戻そうって」 その声は何時もの優しい少女の声だった。 しかしカレンには、それがまるで牙を秘めた美しき獣の咆哮のように聞こえたのであった。 “失われたのは、たった一つの愛しい絆” |