今すぐ帰りたい。むしろ逃げたい。いや、逃 げ さ せ て !!






午後十一時の ロ マ ン ス








 思わず絶叫してしまいそうな心中を抑えて、スザクは目の前の光景に溜息をついた。
 大学のサークルに入って二年経つものの、未だにこの状況には頭を抱えてしまう。いや、楽しいことは楽しいのだ。ただ、スザクは自分がうわばみであることを知っている。だからここまで酒宴が進んでしまうとどうしようもないことを知っていた。
 ああ、またからんでる。いい加減に素面に戻れこんちくしょう。
 そんなことを思うのも仕方が無いだろう。幾ら酒が入っていて、先輩が無事に卒業できるお祝いだとしたって、人に迷惑をかけていい理由になどならない。
 しかもそれが、今いる居酒屋の、定員であるというならば尚更。

「あのさ、君何歳? 今日何時まで? 良かったら俺らと一緒に飲まない?」
「あの、お客様。すみませんが仕事中なので……」
「いいじゃん! 客の俺らが呼び止めてんだからさー。何か言われたら俺らが言ってあげるって!!」
「あ、じゃあ中生一個ね」
「うんにゃあと五個は!! 今日はまだまだ飲むぞ!!」

 がははは、と豪快に笑う先輩や他の部員もかなり酔っている。一年の部員はさすがにもう帰してしまったため、素面なのはスザクだけである。ちょっと空しい。
 困っているように笑っていた女性店員(結構美人)を何とか引き離し、謝罪を述べて戻らせた。きっと今度から来るのは男性になってしまうだろう。ああ、素面には辛い。花が欲しい。
 予想したとおり男性店員に運ばれてきた中生ジョッキを持って騒ぐほかの面々を余所に、スザクはテーブルの隅にぽつんと置かれた小さなブーケを見つめた。

 祝い品のそれは小さいながらも可愛らしく、女性が貰えばきっととても喜ばれる品だろう。しかし安いという理由だけでそれを選んでしまったため、この男ばかりの剣道サークルにそれは限りなく不向きだった。一つ追いやられたそれはもう帰った先輩の一人が置いて帰ったものだ。ゴミになってしまうには惜しいものの、自分の部屋に置いたら確実にゴミになりそうで嫌だ、と自分に託して帰っていった。迷惑なことだ。
 かといって確かにその可愛らしい花束をゴミにしてしまうのは確かに惜しく、帰ったら母親に生けてもらおうかとそっと息をついた。

「失礼します、ご注文をお伺いします」

 少し低めの通る声が聞こえたのはその時だった。
 誰かが呼び出しボタンを押したのだろうと顔を上げてスザクは固まった。周りの人間も少し息を飲んでいた。一瞬だけ喧騒の静まったそこは直ぐに何事も無かったようにまたざわめいた。ただし、意識は一点に絞られていたが。

「え、えっと……こ、この白ワインをグラスで一つ!」
「あ、じゃあ俺はこのカシスウーロンを……」
「ジ、ジントニックと、あと洋風卵焼きとそれから……」

 ちょっと待てなんだそのレパートリー。

 声に出さなかったのが不思議なくらいスザクは顔を引き攣らせて呟いた。
 さっきまでつまみといえば枝豆、軟骨から揚げ、たこわさ、魚類、串焼き。頼むものはもっぱら中生かいっそ樽生、または日本酒か瓶ビールと言っていた人物達がこぞって違うものを頼んでいる。何だその注文。明らかにカッコつけようとしてるだろうアンタら。
 その理由も、解らないではない、が。

 注文をとりにきたのはすらっとした細身の男性だった。制服が他の店員と少し違うのでちょっと上の階級なのだろう。控えめな笑みを浮かべ愛想よく接してくるその姿は好感がもてる。もてるのだが、しかし。

 男性にしては彼は、いささか、いやかなり美人すぎた。

 首筋にかかる少し長めの黒髪はサラサラしていそうで艶っぽい。肌は女性のようにきめ細かく白く、物腰もどこか気品を感じさせる。切れ長の瞳は高貴そうな紫色で、およそこんな店の店員には不釣合いなほど整っている顔をしていた。
さっきの女性店員すら霞むほどのその美貌に、男といえど酔っているせいもありこぞって注文を頼む面々を、スザクは若干呆然と見つめていた。

「ご注文を繰り返します。白ワインがグラスでお一つと……」
「あ、あの!」
「はい?」
「え、えと、何歳ですか?」
「え? 二十ですけど……」
「大学二年生?」
「はい。で、それからカシスウーロン三つに、ジントニックお一つ。ソルティドッグが……」
「どこの大学ですか!?」
「……アッシュフォード大学ですけれど……」
「え、マジで!?」
「一緒じゃん! 何処の学部!?」
「あの、お客様。すみません、ご注文をご確認させて頂きたいのですが……」
「大丈夫大丈夫! 合ってるって! それより……」
「あ! 誰か携帯鳴ってますよ」
「え?」

 微かに流れるメロディにぴたりと皆が止まった。その瞬間を見逃さず、スザクは困っている男性へと声をかけた。

「今のうちに行って下さい」
「え?」
「本当に注文は大丈夫ですから。逃げちゃってください」

 スザクの言葉に彼は驚いたように目を瞬かせていたものの、直ぐに軽く頭を下げて出て行った。そしてまだ探していた面々に少し大袈裟に言う。

「あれ、すみません僕のでした!」
「何だよ枢木! 慌てさせんなよなー」
「あーあ。あの人行っちまったじゃねーか」
「でも、先輩達絡みすぎですよ。今度の注文が来たらもう帰りましょう」

 そろそろ時間もマズイ。終電ギリギリになってしまうのは怖いが、注文してしまったものはさすがに飲んでからではないと帰れない。
 結局次に来たのは先程の彼ではなくて、違う男性店員になっておりそうこうしているうちにやっと酒宴は幕を閉じた。



「あれ……」
「あ、お帰りですか?」
「は、はい。会計お願いします」
「有難う御座います」

 お金を集めて、他の人間を先に外に出した。会計はたくさんいると邪魔になってしまう。結局ほぼ素面のままだったスザクがレジに行くと、そこにいたのは先程の彼だった。
 伝票を渡し支払いをすませている中、不意に声をかけられた。

「あの」
「え?」
「さっきは、ありがとうございました」
 少しすまなそうな紫に謝られて、スザクはああ、と少し微笑んだ。
「いえ、こちらこそ迷惑かけちゃってすみません。しつこかったっし」
「居酒屋ですから、これぐらいは平気です。でも、ありがとうございました」

 丁寧にお礼を述べてくる彼がお釣りを出してきたのを受け取る。何となく、残念な気がしてスザクは少し手を伸ばすのを遅めにした。
 彼が笑っているのは愛想笑いだ。それぐらい鈍い自分でも解る。
 だから、もっと笑ってくれないかななんて考えてしまって――――手の中に残っていたものを思い出した。

「あ、そうだ」
「はい? 何かお忘れですか」
「いえ、そうじゃなくて。この花貰ってください」
「は?」

 突然差し出されたブーケに、さすがに面食らったのか彼がぽかん、と呆けた表情を浮かべた。どこか間の抜けた、しかし幼く見える表情にスザクは笑いかける。

「これ、渡されたんですけど僕にはもったいなくて。押し付けるみたいで悪いんですけど、貰ってくれませんか?」
「いや、でも……その、他の女の子にあげてくだ」
「あなたに、です」
「え」
「あなたに、差し上げます。その、良かったらもらってください」

 思いのほか強い口調になってしまった自分に驚いた。
 何をしているんだろう。こんなブーケなんて、幾ら綺麗でも男性だ。いらないだろうに、なんで。

 ほんの少しよぎった疑問に気づかないフリをして、スザクは差し出したままのブーケを半ば強引に彼に渡した。しばし、戸惑っていた彼が受け取り、そして。


――――少し困ったような照れたような、でもはにかむように浮かべた笑みをみせた。


「ありがとう、ございます」












「あれ、枢木どうした?」
「…………僕、酔っちゃったみたいです」
「へー、気をつけて帰れよー?」
「先輩も、気をつけて帰ってくださいよ。道端で寝たりとかしないように」
「しないっつーの! じゃあな!」
「んじゃ、俺達も……おー、マジで枢木酔ってるみたいだな」
「めっずらしーな。お前滅多に酔わねぇのに」
「そう、ですか?」
「おう。すっげー真っ赤だぜ顔。相当飲んだんだなー」

 そう、僕は、酔っていた。確実に。酔っていたのだ、絶対。







“向けられた笑みが凄く可愛くて、なんて、そんなまさか!!”