「本当に大丈夫なんだろうな…………?」
「安心なさい。一応そういう事象は確認されているから説明もしやすいわ」


 くすり、と何かを含んだような笑みが向けられて問いかけた少女の眉が寄る。
 不機嫌そうに唇を尖らせて、恨みがましそうな視線で睨まれるのにも構わず幼い少女は告げた。

「いいじゃない、約一年分の失踪理由が出来たんだから。しかもかなり明確に」
「そうかもしんねーけど……そんなのを理由にしてまで行きたくねぇ……」
「ちゃんと補習や宿題をすれば留年は免れるんでしょう? 一度決めたんだからもう諦めなさいな」
「うううう……」
「…………もしそんなにも嫌なら、一つ別の道があるけれど」
「何だ!?」
「お嫁さんとか。探偵やりながら主婦でもすれば?」
「…………………………………………まだ、やだ」(まだ?)


 憮然とした表情で、けれど顔を真っ赤にさせながら紡がれた台詞に哀は笑った。









 『ガールズライ、ふ?』
     〜And the starting new life〜









 その日、帝丹高校を未曾有の大事件が襲った。




「あの、ね? やっぱり人それぞれ人生には何回も波乱とか挫折とか、まぁ色々とイロイロとあるわけじゃない? 先生も昔はそれなりにやんちゃしたりもしたし、今こうやって貴方達を教えていてもイロイロ学ぶことはあるわけだし人生って解らないものなのよ。だから、なんていうか、何が起こっても不思議じゃないし、艱難辛苦を乗り越えて掴み取ったものはきっとより良いものなんだと思うわけなの」
「……いきなり何言ってるんですか先生?」

 朝のショートホームルームもそこそこに話し出した教師にクラス中が首を捻った。
 まだ三年になったばかり。卒業式にはまだまだ早いし、こんなことを語られるイベントがあったわけでもない。だとすれば教師のほうに何かあったのだろうかと女子は心配し、男子は興味半分に教壇を見やった。
 そんななか勇気ある委員長が首を傾げて問いかけた。さすがだ委員長、よく言ってくれた委員長、とそこかしこで賞賛の声が密やかに上がる中、注目の教師といえばその言葉にぐ、と押し黙る。

「……だって、ほら先生にも一応心の準備とか……これでもこの学校で三年教師やってるけど、いえ、教師生活の中でも初めてだし……」
「何かあったんですか?」
「俺たちにも関係あることー?」
「もう、先生! さっさと言っちゃいなよー!」

 言うのを渋る、というか躊躇う教師に何人かが野次を飛ばす。だんだんざわついて来た教室内に、教師は少し息をつくと――覚悟を決めたように背筋を伸ばした。

「……先生?」
「いーい? あんまりさわいじゃダメよ? 大変だったんだろうし……ちゃんと暖かく迎い入れてあげましょう?」
「へ?」
「何、一体……」
「どういうこと?」
「……どうぞー? 入ってらっしゃいー?」

 ざわつく生徒を尻目に、教師は廊下側へと声をかける。
 そしてその声に促されるように、少しして扉がガラリと開き。


「……………………よう」




 ――――――次の瞬間、教室内では大絶叫が飛び交い学校が揺れた。








「えええええええええええええええっっ!!!???」
「は!? え!? ほ!?」
「夢だ……俺は夢を見ているんだ……!!」
「降臨した!! 神が降臨しなすった!!」
「え、え、え、有り得ない! 有り得ないわ!!」
「あれ、あたしまだ起きてなかったんだ……よし、寝よう。寝たらこれは夢だから起きるはず……そうよ、あたしは起きるの……!!」

「な、何々どうしたのよ工藤君!! どしたの!?」
「何で女子の制服!?」
「女装っ!?」
「に、しては線が細いというか艶が三割り増しのよーな……」
「工藤……お前に、そんな趣味があったなんて……!!」
「安心しろ!! それでも俺たちは友達だぞ!」
「そうだぞ! 大丈夫だ、関口だって実は部屋にセーラー服とか隠しもっているのを俺は知っている!」
「いやそこバラすなよ!!」
「どちらかというと俺はナースがいい」
「そういう問題でもねぇ!!」

「……っっテメェら喧しい!! 説明くらいさせやがれ――っっ!!」



 数分後、どうにか静まった教室内で新一は深く深く溜息をついた。

「……ってことで、俺は女だったから女に戻った。以上」
「…………でもよ、俺たち……」
「下品なこと言うけどよ? 見たことあるぞ? トイレで」
「無くなった。正しく言えば消えた?」
「へ?」
「ホルモン治療だとか何だかんだやってると、小さくなってきて最後にゃ無くなるんだよ。その代わりちゃんと女だし」
「……生々しい話だな」
「オメーらが聞いてきたんじゃないかよ。ったくデリカシーのない野郎どもだな」
「いや、だって……」
「工藤だし……」
「なぁ?」

 顔をみあわせて、クラスメイト達は目の前に立つ美少女を見つめた。
 確かに顔は工藤新一のものである。が、見た感じが少し丸くなったというか柔らかくなっており、完全に女子の顔だ。改めて全体を見てみれば足も細く、体の線も細く柔らかく丸みを帯びている。一番顕著に変わったのは髪だろうか。男であった時は普通に短かった髪が、今では肩を少し越すくらいになっている。先の方は緩くカールしていて、随分と可愛らしい感じだ。
 元から美人顔ではあった。何せあの大女優の息子だ。元から女装は似合うとは思っていたが、これほどまでの美少女になるとは思っていなかった。
 そんな美少女にクラスメイト達は見惚れている中――その中心となっている新一自身は全力疾走する心臓を必死で宥めていた。

 (そのまま騙されてくれよー……?)

 実は、クラスメイトに語った話はほぼ全てがウソである。
 本当は半陰陽などのことは全く自分には関係ない。別に新一は半陰陽だったわけでは無いし、半陰陽については未だ何処の医学でも明確なことは解っていない。それ故に利用したくらいだ。
 何せ、新一の体が女性になってしまったのはある薬のせいだからだ。
 その名をアポトキシン4869――の、解毒剤。
 体が戻ってある日、朝目覚めてみたら体が女性になってしまっていたなんて何のサプライズだろうかと悩んだものだ。
 正直本当に悩んだ。それこそ最初は何とかして戻ろうと必死になったし、様々なことを試してみた。けれども、自分のもはや主治医と言っても過言ではない少女が出してくれた結果で、決めたのだ。
 全ては自分と、自分を大切に思ってくれている人たちのために。
 そうやってこの体で生きることを覚悟したのが、今年の二月終わりの頃。
 それまで何やかんやとあったものの、とりあえずこうして新一は復学を果たしたわけである。
 騒がれるのは仕方がないだろうと高を括っていたので問題は無い。あるとすれば唯一つ。
 こちらをじっと見つめる、幼馴染の視線だけだった。


「ところで工藤」
「何だ斉藤」
「お前には男の浪漫があんまりある気配が無いんだが」
「は? ……ああ、胸か。あるぞ一応」
「あるのか」
「あるように見えないんだが」
「しかたねーだろうが。育ち始めたの最近なんだからよ」
「俺が大きくしてやろうかー?」
「ああ、そうなら俺もー」
「……よし、テメェらそこに一人ずつ並びやがれ」
「待て待て待て工藤、足を振り上げようとするな」
「そうだぞ、中見えるぞ」
「俺の心配よりもお前ら自分の心配したらどうだ?」
「じょ、冗談だっつーの」
「そうそう、ジョーダンジョーダン」
「冗談でも言われたくねぇよンなこと。大体、間に合ってんだよそんなヤツは」
「……………………………へ?」
「あ」
「……………………………」
「……………………………」
「……………………………せんせー、授業初めてくださーい」
「「「工藤――――ッッ!!??」」」














「………………」

 桜の花はまだ咲いていた。眼下に咲き誇るそれは春の代名詞とも呼べる花で。
 儚くも確かにそこに咲き、人々の目を鮮やかに楽しませるそれは毎年見るものだ。毎年毎年、必ず一緒に見たのだ。何か約束するわけでもなく自然に、ただただ二人でぼうっと見上げているだけだったけれど。
 でもそこには、確かに淡い想いが息づいていた。いや、自分の中には今も息づいている。
 それがこんな終わりを迎えるなんて予想していなかったけれど。

「…………ここにいたのかよ。探したぜ?」

 後ろから聞こえてきた声は、聞き覚えがある声だった。
 でも少し違う。『アイツ』の声はもっと低かった。ぶっきらぼうで時々意地悪な、でも本当は優しい声。他の人とはちょっと違うトクベツな声。
 今でもその声音は変わっていないことだけが救いだったのかもしれない。

「…………しんいち」
「もう直ぐ五時限目始まるぞ」
「……新一こそ、早く行かなくていいの?」
「もう疲れたから、少し休んだっていいだろ」

 顔を向けないまま喋っていれば、横に気配が来て寄りかかっていたフェンスがかしゃんと揺れた。
 ちらりと見れば、視線は反対側を向いている。自分は下を、『彼女』は内を。
 同じものを見ていなかった。
 暫くしてチャイムが鳴る。それでも自分は動かなくて、彼女も動かなかった。だから下を眺め続けた。屋上から見下ろす校庭には誰もいない。授業もない校庭は閑散としていて、眺めるものは町並みと桜の花だけだった。
 時間がゆっくりと流れていく。こんな風に授業をサボったことは無かったと、思う。でも今は授業を大人しく聞いていられる自信が無かった。制御しなければ泣き出すか、怒鳴ってしまいそうなほどに心がざわめいていて。
 だからやっと搾り出せた声が震えていたのは仕方なかった。

「…………何時から?」
「ん?」
「何時から、治療してたの?」
「…………去年の夏過ぎたところぐらいだったかな」
「……そう」
「……………………………やっぱ、怒ってるよな」
「…………………怒ってるわよ、すっごく」

 カシャン、と今度は自分の手の下でフェンスが鳴った。
 震えているのだろう。何にかは自分でも解らない。ただ込みあがってくる何かに耐えるのに必死だった。
 溢れそうなもの。もう溜まりすぎて、器から零れそうなくらい満ちているものがある。それをギリギリで押し止めて今まで来た。ずっと待っていた。
 でも、もう。
 限界が迫って。
 だから。


「…………なぁ、蘭」
「……なに?」

「………………ありがとう」


 ずっと、待っててくれて。
 ありがとう。…………ごめん。


 その言葉で心の器は簡単に決壊した。


「…………っ、ばかぁっ!!」

 フェンスがけたたましい音をたてて揺れた。もしかしたら下に聞こえたかもしれない。けれどもう抑えきれなかった。どうしようもなかった。
 抱きつく、とはいえないかもしれない。渾身の限りで突撃したようなものだから。でも彼女はよろけながらも自分を支えて、そっと肩に手を置いた。
 ずっと守ってきてくれた体。この一年は傍にいなかったけれど、でもずっとこの年まで守ってくれていた。いなくなって初めて、どんなに守られていたかを知ったのだ。
 触れた体はもともと細かったけれど更に細くなって、そして柔らかくなっていた。それは間違うことなく男性ではなく、女性のものだった。自分と同じ、女性の。
 感じたのは絶望だろうか、それとも。

 だって。
 ずっと待っていたのに。
 ずっとずっと。待って。待ち続けて。
 きっと最後はハッピーエンドだと思っていたのに。

 遣りきれない想いをどう昇華すればいいのか解らない。

「……ずっと……ま、って……!!」
「…………うん」
「ずぅっと……ず、っと……まってろ、って……いう、から……!」
「…………ごめん。本当に、ごめん……」

 泣き出した自分を抱きしめた温もりにまた涙が出た。
 優しすぎた。痛くなかった。胸の高鳴りも何も無かった。
 好きなのに。こんなに大好きなのに。
 だいすき、だったのに。

 『彼女』じゃ駄目なのだ。
 『彼』じゃなきゃ駄目なのだ。

 この恋は『彼』にしたものだから。
 『彼女』には恋が出来ない。
 すきなのに。でも、それでも。
 記憶の中の『彼』を求めてしまってる自分には、『彼女』に恋が出来ない。
 性別が一緒だとかそんな問題じゃない。
 だって、『彼女』はとても綺麗だから。
 綺麗過ぎるから。


 ――――『女性』として、愛されている美しさが見えるから。


 昔からずっと傍にいた自分だから解る。同じ『女性』になった今だから解る。
 『彼女』の美しさは、恋をして、愛して愛されている美しさだ。
 だから、恋なんて出来ない。
 もう彼女には、愛してくれている――こんなにも綺麗にしてくれる人がいるのだと解ってしまったから。
 恋なんて、できない。


「……ほんと……サイテー……」
「……ああ」
「人のこと待たせておいて……そんな、綺麗になって戻って来るんだもん……酷いよ……!」
「…………そうだな」
「しんいちなんて……だいっきらい……!!」
「…………」
「ほんとに……ほんとに好きだったんだからぁ……っ!!」
「うん」
「ずっと、ずっと前から! 私は新一しか、見てなかったんだから!」
「うん」
「ずっとずっと……ずっと……!」
「……俺も……ずっと好きだった。……離れるまで、ずっとそうだと思ってた」

 不意に、抱きしめられている手が緩んだ。少し俯いた彼女が自分の肩に頭を寄せる。
 静かに耳元で語られるのは懺悔のような、言葉。

「離れて気付いた。俺は……お前を一番には想えないって。……好きだ。本当に本当に大切で特別で、今でもお前のことが好きだ。……でも、離れて痛感したんだ。俺は、お前に幸せになって欲しいんだって。誰よりも幸せになって、ずっと笑ってて欲しいんだって。……その幸せに俺が入っていなくてもいいことに、気付いちまったんだ」

 目を見開いた。
 驚きで呆然となる自分に構わず言葉は続く。
 残酷で、それなのに悲しいほど優しい『彼』の願い。

「傍にいられなくても、良かったんだ。お前を幸せにするのが俺じゃなくても良かったんだ。俺はやっぱり推理バカで事件を追いかけて、お前のことを置いていくだけなんだ。それに気付いたら、解っちまったんだよ。……俺はただお前が幸せになってくれればいいんだ。見守っていければ、それで良かったんだ。お前が笑っててくれるなら、それだけで良かったんだ……」

 何て、酷いんだろう。
 だってそれはまるで。
 無償の愛情。それは、『家族』が与えるものに、似ている。


 恋じゃ、ない。


 ――――その瞬間、全てを理解した。

 ああ、見つけてしまったのね。
 傍にいてほしい人を、見つけちゃったんだね。
 一緒に幸せになりたい人が、いるのね。
 ほんとの『恋』を教えてくれた人がいるんだね。

 私じゃ、駄目だったんだね。


「……そんなのエゴだよ。自己満足だよ……」
「そうだな、解ってる。これは俺の自分勝手な願い事だよ。……ほんとに、ごめん」
「……バカ。推理オタク。ホームズ馬鹿。サイテー男。自分勝手で、酷くて、ズルくて……」
「………………」
「…………新一、なんか」
「…………」
「……新一、なんか……好きじゃ、ないもん」
「……?……蘭?」
「もう、好きじゃないわよ。新一みたいな最低男、こっちから願い下げだわ。……私の恋は、もう終わり。ここで終わりなの。だから」

 顔を上げると、彼女が驚いてから眉を寄せる。
 そんな酷い顔だろうか。涙でくしゃくしゃになっているだろうけれど。そんな自分を責めるような顔しなくてもいいのに。確かに、私は『彼』を責める権利を持っているだろうけれど。もう『彼女』は『彼』じゃない。
 だから。

「ここからもう一度初めよう?」

 『彼女』から一歩離れて手を差し出した。上手く笑えているだろうか。泣き顔のままじゃなかったらいい。新しい初まりに涙は似合わないから。


「これから私たちは幼馴染で、家族みたいなもので、大事な親友よ。女同士、仲良くしましょ?」


 ねぇ、『女の子の工藤新一』さん?


「………………ありがとう」


 差し伸べた手がとられて、そっと握られる。
 細くて滑らかで優しい手。ずっと守ってきてくれた手じゃなくて、これからは助け合っていく手。
 どうか、彼女も幸せになってくれることを祈る。


 こうして長かった恋心は、一人の親友が出来た代わりに終わりを告げた。








“Good-bye, a favorite person”
ずっとずっとずっと、だいすきだったひと