たとえばそれは、まるで空気のように。 「…………つまり、影が薄いってこと?」 「アレが影薄いってなら、世の中の人間の大半が影無しだな」 眉を寄せて返された言葉に探偵はあっさりと告げた。その返答に納得がいかないのか、科学者は訝しげに彼を見やる。 黙ったまま見つめられるのはあまり気持ちがいいものではなく、探偵は諦めたような様子でそっと息をついた。 「……馴染みすぎてて、時々忘れそうになるんだ」 「結構ヒドイこと言うのね」 「帰ったら家に居て勝手に飯作ってて、一人で本読んでたと思ったらいつの間にかくっついてきてて、外で買い物してると隣で栄養バランスについて説教してくんだぞ?」 「……甲斐甲斐しいというか、何というか」 呆れたような、けれど難しい表情でぼやいた科学者に目を細めた。そのまま視線を合わせづらくて少し遠くを見ていると、彼女の視線が探偵へと向く。それを感じとりながら彼はそっと小さく呟いた。 「……でも、なかったら落ち着かなくて」 明かりの灯っていない玄関。 煎れたてのコーヒーの香りが漂わないリビング。 少し広くて大きなソファの上。 『作り置きしてあるから冷凍庫から出してレンジで温めて食べてね? 面倒くさいって食事抜いちゃだめだからね?』 『わーってるっつーの。ほら、さっさと行って来い』 『新ちゃん冷たい……』 『何時ものことだろ』 『ぐさっ! うううちゃっちゃっと終わらせてきてやるー……っ!!』 『ヘマすんじゃねーぞ』 『しーまーせーん!! ……そろそろ、本当に行くからね? 具合悪くなったらお隣行くんだよ?』 『へーへー』 『じゃあ、行ってくるね』 そう言って出て行ったのが昨日の午前中で。 帰るのは予定では明日の夜か、明後日の昼になる。 ほんの三日間足らずだというのに、どうしても何かが足りない気がしてくるのだ。今までだってずっと一人でいたはずなのに。何だか急に家の中ががらんとしたみたいで。 幼馴染みの家は確かに賑やかだったけれど、それが恋しいわけでもない。それなのに。 上手く、呼吸が出来なくて。 気が付いたら、隣家に来ていた。 「……あなたって……」 科学者は心底呆れたようなため息をついて、こめかみを揉み解すように頭を押さえた。 ぐいっとコーヒーが入ったカップを煽って飲み干すも、まだ何かが足りなさそうな顔をしている。 その顔に不思議そうな表情を浮かべる探偵を軽くねめつけて、科学者はくるりと椅子をパソコンの方へと戻した。 拒絶してくるような背中に声をかけようとした探偵を遮り、どこか疲れたような声が紡がれる。 「……ほんっと馬鹿馬鹿しい……。私は甘いものはあまり好きじゃないのよ」 「甘いものなんて食べてないだろ」 「胸焼けしそうなくらいよ。ゴチソウサマ」 突然機嫌の悪くなった科学者に探偵は首を傾げるものの、それ以上小さな背中を見つめていても言葉は発されることはなかった。 仕方なく家へと戻ってきて、少し遅くなった昼食を食べた。冷凍庫に入っていたのは温めれば直ぐに食べれるようにしてあるものばかりで、バリエーションには事欠かない。本当はそんなに食欲は無かったのだけれど、帰ってきて冷凍庫の中身が減っていなかったら説教されるだろう。それこそ面倒なので大人しく、食べれそうな野菜スープとパンですませた。 こんな時に限って事件の依頼や呼び出しは来ない。少しでも気を紛らわせるために本を持ってきたりもしてみたけれど、新刊はとうに読みつくしていたため手が止まってしまった。 静かなリビングが少し寂しいような気がして、テレビをつけた。適当なチャンネルに合わせて音量は控えめにBGM代わりにする。それでも何か足りなくて、落ち着かない。 ……本当は、解ってる。 どんなに何時も通りにしてみても、人の声が聞こえる状態にしてみても、駄目なのだ。 息苦しくなる。 何時からこんなに慣らされたのだろうか。自分以外の気配が家にあると落ち着かなかったのに。何時からこんな物寂しくなるまで馴染んでいたのだろう。 この空間に足りないのは、たった一つで。 それが無いと他に何があったって足りないだけで。 無性に会いたくなった。 「……馬鹿らし」 まるでそんな、恋してる、ような。 空気が足りないだけなのに。 息苦しさで胸が詰まって、何かに喉が塞がれたような気がして、それで。それだけで。 甘い感情なんかとは無縁なはずなのに。 確かに、彼は探偵のことを『好き』だというけれど、でも。 「…………」 『おはよ、新一』 『おやすみ、新一』 『新一、ほらちゃんと髪乾かして!』 『新一』 『好きだよ』 重症だ。 認めたくなくて、でももう誤魔化しようがなくて。 どうしようもないくらいに飢えている。欲しがってる。 あの優しい声が、指が、存在が。 足りなくて、上手く脳に酸素が送れていない。 呼吸するのが難しくて、ぐちゃぐちゃな感情が湧きあがってきて。 もう、認めてしまったほうが楽なのだろうか。 ソファーに寝転がって、だんだん暮れかけてきた窓の外を見やった。 もう何もやる気が起きない。昼食が遅くなったので、夕食を食べる気もしない。そもそも食欲すら湧いてこない。本当に重症だ。馬鹿馬鹿しいぐらいに手を伸ばしている。 近くに置かれた毛布を引っ張って、ソファーの上でその中に潜り込んだ。寝てしまおう。きっと今なら明日朝まで寝ていられる。そうしたらきっと彼は夜には帰ってくる。この息苦しさも解消される。 こんなところで寝たらまた怒られる、と解っていつつも頭の中の警告を無視して探偵は目を閉じた。 「………………」 まどろみの中で、傍にある温かいものに身を寄せた。もぞもそと擦り寄っていけばくすりと小さな笑みが聞こえる。そっと髪を撫でられる感触に探偵はふっと目を覚ました。 「…………あ?」 「おはよう、新ちゃん。リビングで寝ちゃ駄目って俺言わなかったっけ?」 瞼を開けて飛び込んできた顔に暫し状況を忘れた。温かかったのは彼の温もりで、場所がベッドの上だったからだ。窓はカーテンが閉められているものの、うっすらと陽の光が零れている。つまり今は朝か昼だろうか。 ………………待て。 朝か昼? 「……快斗」 「ん?」 「おめー、帰ってくるの今日の夜じゃなかったか?」 「予定ではね。けど、」 さら、と髪が少し持ち上げられたかと思うと至近距離でその先に口付けられる。ほんの数センチ離れただけの顔が探偵を見やって、優しく愛おしげな眼差しが注がれた。 「……新一欠乏症になっちゃったからさっさと帰ってきたんだ」 ただいま、ともう一度こめかみに口付けが落とされて。 ――――何かが、決壊したような気がした。 「っ!?」 近くにあった顔を引き寄せて、勢いのまま口付けた。 驚いたように瞳が見開かれる。何となくその様子に楽しくなって意表をつけたことに喜んだ。普段は驚かされてばかりだから、こんなの意趣返しにもならないだろう。 軽く口付けて直ぐに手を離すと、呆然としたような表情がそこにあって思わず噴出した。ぽかん、と間の抜けたポーカーフェイスは何処へやら、という顔。驚きで声も出ないらしい魔法使いに探偵は緩く唇で弧を描く。 「お前のせいだからな」 「……え? え? あ、あの新一、これ」 「息出来ないんだよ、上手く。こんな風にしたのはお前なんだから、ちゃんと責任とれよな」 「息? え? し、んいち、その、俺のこと」 「人工呼吸」 「へ?」 「足りないんだ、空気が。だから人工呼吸。――してくれるよな?」 そしたら、言ってやるよ。 挑戦的な笑みを浮かべてそう言えば、呆然としていた顔がみるみるうちに喜色に輝きだした。ぎゅっと強く腕を回されてから上から覆いかぶさるように顔が近づく。頬に手が添えられ、唇が触れ合うほんの少しまで近づいてふと魔法使いは首を傾げる。 「……そういえば、何で人工呼吸?」 「……説明はまた後でな」 今はこっち、とばかりに魔法使いの首へ腕を回せば幸せそうに唇が綻んで吐息が触れる。 眠る前まで感じていた息苦しさがもうないことに気づき、探偵は静かに微笑んでそっと瞼を閉じた。 “何時からか、呼吸をするように恋をしていた” |