全部、届けばいいのに。
 会いたい気持ちも恋しい思いも、狂おしいほどに願い祈るこの感情も。
 ぜんぶぜんぶ、届けばいい――――。


「……いつもこんなんなのか?」
「まぁ、おおむねな……」
 遠い目をする少女にふーん? と少しばかり呆れたように息をつき、彼は少しだけ困ったように首を傾げる。
「これじゃもしかして忘れてる人多い?」
「そんなことは無いと思うが……あの方は忘れているんじゃないか?」
「そーかもなぁー」
 黒髪の少女の苦笑に、彼は肩を竦めて空を見上げた。



Could have been happy dream




「ったく……これだから日頃言ってるんだろうが、整理整頓はしておけと。給料下げるぞ」
「ええええ!? ただでさえ今でも少ないのにっ! これ以上減らされたらアタシ死んじゃいますよー!!」
「じゃあ給料が上がるように真面目に仕事をやれ。そうしたら考えてやる」
 ええー!! と不満気に声を上げる部下にため息をつき、冬獅朗は少し皺になった書類へ視線を戻した。
 少々擦れて読めなくなっている箇所もあるがおおよその検討をつけ署名をする。それを数センチ積み重ねられた書類の一番上へと置くと、冬獅朗はため息をついて椅子へ凭れ掛かった。
「おつかれさまですー……」
「全くだ」
 ことり、と音をたてて置かれた湯飲みを掴み口をつける。少し冷ましてあったそれを半分ほど飲み込み、副官を見上げて目を眇めた。
「これに懲りたらもう少し気をつけろ」
「はーい。さすがにあたしもマズかったと思ってます……しかもよりによって今日」
「あ?」
「や、何でも無いです!」
 ぼそりと零した音を拾うも彼女は首を振って笑った。突っ込んでロクなことであった試しも無い。まぁいい、と彼は書類を揃えると副官へ突き出した。
「これを届けて来い。そうしたら業務終了だ」
「はい! ……あ、隊長!」
「うぉっ!?……なんだ」
 やれやれ、と肩を揉む冬獅朗へと、一度は扉へ向かおうとした乱菊が机越しに身を乗り出す。その勢いに若干引きながらも問えば、彼女は真剣な目で懇願するようにそれを発した。
「絶対、に! 帰らないで下さい!」
「……あ?」
「いえ、帰ってもいいんですけどまだです! もう少し待ってください!! あ、どこかちょっと行くのも駄目ですよ。このままここに居てくださいね!」
「……なんだそれは」
「何でも、です! そうじゃないと後で後悔するのは隊長なんですからね!」
「俺が?」
 後悔? と首を捻る間に乱菊は「絶対ですよ!」と念を押して執務室を飛び出していく。その後姿を見送り、冬獅朗は訝しげに眉を寄せた。
「一体何なんだ」
 まさか帰りに呑みにでも連れて行け、と言うのだろうか。乱菊ならば有り得る。が、それをあんな必死に彼女が言うことはないだろう。その気になれば酒代くらい彼女自身の給料からでも、呑み友達と言って憚らない享楽にでも連れて行って貰えるだろう。もちろん集られたことは数度あるが、かといってそれは自分が出してやると告げた時や何かの祝い事くらいだ。唯でさえ失敗を犯しているのに、それをうやむやにしてまで酒にこだわる人間ではない。
 はて、とさっぱり理由が掴めないながらも筆と硯を片付けて、冬獅朗は執務室をぐるりと見渡した。
 ガラスは拭かれ埃は見えない。少し乱雑だった書棚も机の上も全て整っている。いつもこうならば良いのだけれど、と思うが仕方なかろう。ただでさえなかなか片付かないというのに、今年は隊長が三人も離反したのだ。散らかってしまっていたのも無理はない。
 そう、今日所謂は年に一度の大掃除――というやつであった。
 毎年のことながら疲れた、と椅子に体を預けてしまうのは副官のせいである。
 サボり癖のある副官は今日という日も隙を見つけてはサボり、更に恐らくは彼女のそのサボり癖故だろう、埋もれた机の中から期限切れの書類がどっさり発掘されたものだからたまったものではない。
 ぷちん、とキレた冬獅朗が思わず卍解で副官を懲らしめたのはつい数時間前のことである。
 大掃除の際に『重い物を動かす際の卍解禁止』『恥ずかしいものが見つかった際の卍解禁止』等、馬鹿馬鹿しい項目が上げ連ねられていたが、とうとうその中に『サボってる部下を叱る際の卍解禁止』などという項目が付け加えられてしまった。本当に馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しすぎて涙が出そうだ。
 これも全ては副官がサボらなければ、と思い眉間の皺が深まる。どうすればサボり癖が治るだろうか、そんなことを真剣に悩む冬獅朗であったが不意に――――感じた霊圧に凍りそうだった部屋の空気がふっと緩んだ。
「……何でだ?」
 近付いてくる霊圧は突如出現した。いや、一度昼過ぎに感じていた気がしたのだけれども、直ぐに消えてしまった為に気のせいかと思っていたのだ。しかしこれはそうではなく、むしろ何らかの術で霊圧を消していたとしか思えない。
 しかしこんな時間まで何を? と時計を見やりますます首を捻る。時刻は既に夕方も越えた夜だ。平日ならば間違いなく帰宅している時間だというのに、一体何故。
 そんなことを考える間にも霊圧はどんどん近付いてくる。少し焦って、いや急いでいる? けれどそれはどこか弾んでいるようで、思わず口元が綻ぶ。
「……そんな焦ってくんなよ」
 逃げるわけないだろ、お前から。
 追いかけることはあっても、逃げることはない。むしろ近付いてきたところを引き寄せて捕まえて、この腕に囲ってやりたいぐらいだというのに。
 ああ、誰かとぶつかったか。少しその場に留まって、またこちらへ向かってくるということは女だな。男だったら声をかけて終わりだろうから。
 隊舎の敷地へと入る。隊舎内へ上がってくる。廊下を渡って、駆けるのは躊躇っただろうから少し足早に。距離が近付いてきてこちらの気まで急いてくる。
 ああ、早くおいで。

「――冬獅朗っ!」

 一瞬躊躇って、それでも勢いを殺せずにバンッと音を立てて入ってきた愛し子を見やり笑った。
「どうしたんだよ、そんな息せき切って」
 ん? と尋ねるも息を切らした恋人は膝に手をついて喋ることが出来なかった。椅子を立って傍に寄ると、漸く息が整ったのか一護が顔を上げて冬獅朗を見た。
「良かった……居てくれて」
「お前、いつからこっちに来てたんだ?」
「えっと、学校が終わってからだから四時過ぎくらいだな」
「そんな前から……」
 言外に何故こなかったと問えば、琥珀色の瞳が困ったように笑う。
「忙しそうだったし」
「……まぁ確かにな」
 確かに来るのはいいが構ってはやれなかっただろう。その時刻はちょうど松本の隠していた(溜め込んでいたともいう)書類を発見した時刻だ。
 もしかしてアレを見ていたのだろうか、とふと思い見上げればそっと視線が逸らされる。
 ……見たんだな。
 返す言葉もなくため息をついて腕を組むと、一護はハッとしたように冬獅朗を見下ろして上擦った声を上げた。
「あ、あのさ冬獅朗」
「ん?」
「その……ちょっと来て欲しいんだけど」
「何処へ」
 落ち着き無く視線を彷徨わせる一護に聞くも、恋人は困ったように口篭り答えようとはしない。
 しかしそれが悪意から来るものではない、と解ってはいたから冬獅朗は苦笑してそっと手を差し出した。
「え、」
「ほら、連れて行け」
「あ……お、おう!」
 嬉しげに顔を誇ろばして一護は冬獅朗の手を掴むと執務室を出る。浮き立った恋人の様子にこっそり笑みを漏らしながら、冬獅朗は導かれるまま彼の後ろを着いて行く。
 一応出る時に松本の言葉が頭を過ぎったものの、一護より優先することなど彼の中に存在しない。諦めてもらおう、すまんと心の中で言い訳をしながら冬獅朗は歩を進めた。

 暫くして着いたのは何故か十三番隊隊舎であった。何故ここに? と訝しげに思うより先、一護が背後へと回る。
「さ、冬獅朗!」
「は? お、おいちょっと……」
 待て、という間にも背を押され部屋の中へと押し込まれ――瞬間向けられた破裂音にさすがに固まった。

「誕生日おめでとうございます日番谷隊長ー!!」

「…………あァ?」
「あ、やっぱり忘れてたー」
 と言ってケラケラ笑う副官の傍には苦笑する幼馴染。
「乱菊さん、シロちゃん固まってますよー?」
「おー来たな冬獅朗! 一護くんもお帰り」
「ただいまですー」
 浮竹に声をかけられ背後でそう返す一護へ振り向くと、恋人は眉間の皺を緩めながら微笑む。
「誕生日おめでとう、冬獅朗」
 その言葉に漸く脳が言葉を受け付けて、今日が何日だったかを思い出した。
「……十二月二十日か今日は」
「いやー、間違いなく覚えてないと思ってましたけど……まぁちょうど良かったですね!」
 ささっ隊長も! 一護も早く! そう言って手招きする乱菊の手には既に杯が握られている。浮竹や享楽、狛村や多少の副隊長達等の姿も見えるところを見ると既に酒宴は始まっているらしい。書類はちゃんと届けてきたんだろうな、と言いたい思いを押し込めてため息をつくと隣に来た一護が困ったように眉を潜めた。
「……冬獅朗、嫌だったか?」
「ああ、いや……大丈夫だ。なんでもない」
「そうか?」
 嫌だったらちゃんと言えよ? と言いながら一護は隅にあった四角い箱を持ってくる。何かと首を傾げていると少し照れくさそうな笑みを向けられ、思わず胸が鳴った。
「ちょっといびつだけど……」
 四角い箱の中から出てきたのは白く、丸いもの。ふんわりとした生クリームで飾り付けられたそれには、苺や現世では良く見かける果物がふんだんに盛られていて白に美しく映える。中央には英語、といっただろうか。異国語が何かで書かれていて――。
「……これは……」
「誕生日ケーキ」
 こっちじゃ馴染み無いだろうけど、と言いながら一護がそれを自分の前に置いた。おお、とそのケーキを見た周りから声があがる。
「綺麗だなー、凄いじゃないか一護くん!」
「いや、けっこう崩れてて……」
「そんなこと無いよ。美味しそうだ」
 ニコニコ笑う年寄り二人に褒められ頬を掻く。それからこちらの様子を伺うように見やって――顔を赤くした。
「…………ありがとな、一護」

 ああ、今俺は。
 この生クリームのように甘く、とろけるような笑みを浮かべているに違いない。

「あ、うん……」
 ぽうっと赤くなって目を逸らし俯く恋人が可愛くて仕方がない。
 一週間に一度、土曜日と月曜日の間しか来ない恋人。それはもちろん学業のせいもあるが、何より俺の仕事の邪魔をしないようにと配慮する、そのため。
 昨日帰ったのもそれなりに遅く、今日だって平日だから学校があったはずだ。それなのにこんなケーキがある、ということは頑張ったのだろう。少ない時間で用意してくれた。思えば土曜日も日曜日もほんの少し浮き立っていたような気がする。会えた嬉しさか、と思っていたがあれはきっとこのためで。
「……本当に、有難うな」
 そっと手を重ねて微笑めば一護は嬉しそうに――――そしてどこか寂しげに、儚い微笑みを浮かべて目を閉じた。
「……渡せて良かった――せめて」



 ゆ め の な か で も。




「…………」
 目を開くと、そこは見慣れた自室の天井だった。
「…………」
 少し呆然としてそれから目元に腕を置く。圧迫するようにきつくきつく、ぐっと押さえつける。
 そうでもしないと、熱いものが胸からこみ上げて零れ出てしまいそうだった。
「……し、ろ……」
 会いたい、会って言いたかった。直接伝えてプレゼントも渡して、生まれたことを、出逢えたことを祝いたかった。
 今もまだ鮮やかに蘇る白銀の髪も、自分を見つめる翡翠の瞳も。触れた指先が少しひんやりしていたその感触も。
 こんなに体に残っているのに。
 心が悲鳴をあげる。それを何度も見ないフリをしてやり過ごして、忘れようと何度思っても忘れきれなくて。
 漸く落ち着いてきたというのに、残酷だ。
「ふ……っ」
 息が苦しい。呼吸が上手く出来ずに喉の奥が引き攣る。一度溢れ出した思いは、収まらなかった。
「とうしろ……冬獅朗……っ!!」
 会いたい、会えない。声を交わして思いを重ねていたあの幸せな時間には、もう二度と戻れない。
 何れ終わるとは思っていた。生者と死者じゃ、何れ何処かで終わりが来るとは覚悟していた。
 けれど、こんな、唐突に――。
 最後に見たのが切り伏せられた姿だったなんて。自分を護ると言ってくれた、背中だったなんて。
 何も言えなかった。さよならも何も言えないまま、全てがこの手から零れ落ちて、そして。
「……おめ、でとう……」
 十二月二十日。未練がましく作ったケーキは妹達と共に食べたけれど。
 それでもせめて、この想いが届けばいいと――――祈っている。





「隊長っ!!」
 許可も求めずに飛び込んだ部屋は冷え切っていた。灯りは点いていたがそこには誰の人影もない。霊圧はここにあったのに――といぶかしめば上から声が降ってきた。
「……松本か」
「隊長!」
「お前、そんな格好できたのか?」
 呆れたような声のあと、上から音も立てずに小さな姿が降りてくる。瞠目する自分を置いて彼は部屋へ入ると、羽織を一枚投げて寄越した。それを反射的に受け取ると彼はまた姿を消す。
 屋根に上がった上司を追いかけると、彼はただ静かに満ちる月を見上げていた。
「…………」
 その横に腰を降ろして同じように月を見上げる。
 真ん丸の、柔らかな光を放つ月。優しい光は冬の空気の中では冴え冴えとしていた。その空気はきっと冬のせいだけではなくて――隣に座る人の心が、冷えているせいだ。
 氷のように冷たく、なってしまっているからだ。
「……お前も見たのか?」
「……はい」
 恐らくは、あの場にいた面々も皆。
 昼間に起きた出来事は全てそのまま。夜だってそのまま。けれど夢の中には――――『あの子』がいた。
 そっくりなぞらえたような夢の中でただ一人、居ないはずのあの子がいた。
 それを誰も気にしていなかったし気がついた人もいなかったろう。全ては優しい夢が終わって、そうして気がつく。

 ああ、なんて穏やかで幸せで――そして、残酷な夢。

 誰もが見ないフリをしてきたそれを、こんな残酷な形で引きずり出して。それでもあの瞬間、夢の中では幸せだったから憎むことも出来なくて。
 心が震えて叫びだしたくなる。幼子のように泣け喚けたら楽なのに。
 別れなんて幾度も経験してきた。終わりだって何度もあった。消失の痛みを直ぐ前にだって味わったばかりなのに。
 それ、なのに。
「……あのまま」
「え?」
 そっと紡がれた声に知らず俯かせていた顔を上げれば、ただ真っ直ぐに月を見上げる姿が目に入る。
「あのまま……抱き潰して、閉じ込めてしまえれば良かったんだがな」
「っ!!」
「ったく。まだ一口も食ってねェぞ、俺は」
 そっと苦笑する気配。霊圧は微塵も揺るぐことなく、ただただ静謐さを湛えてそこに在る。
 けれど、伝わってくる静かな――深い慟哭に肩を震わせた。

 太陽みたいに暖かく、天を見上げる花のように真っ直ぐな、夕焼け色の髪をした子供。
 もうその琥珀色の瞳に私達を映すことはない。

 最後に見たのは少し背も髪も伸びて、強い瞳をした姿。
 泣いていたから視界が歪んでまともに見ることさえ出来なかったけど、それだけは覚えている。
 理由もなく安堵して、そして何故か大丈夫だと思ったあの瞬間。どうしてもっとよく、見ておかなかったのだろう。
 後悔したってしょうがないけれど、それでも。
 せめてこの人と別れを告げるほんの少しの時間くらい――――。
「松本」
「……はい」

「……月が、綺麗だな」

 その言葉を本当に言いたいだろう人は、もう会えない。
「……そうですね。とっても、綺麗……」
 震える声を気付かれぬように押し込んで、本当に綺麗な月を見上げる。
 あの子もこんな綺麗な月を見ているだろうかと、想いを馳せた。




“切に祈るその心だけは、共に在ると願っている”